出会いの中での新たな発見

11番 香 川 精 美

私にとって二度目の外国、オーストラリア!飛行機を降りてオーストラリアの地を踏んだその瞬間から、私の感動の毎日が始まりました。どこまでも続く青い空、真っ直ぐに伸びた道路、広大な草原、青く透き通る海、聞いたことのない鳥の声・・・何もかもが興味深いものでした。

オーストラリア、それはとても興味のある国でした。たいした知識も持たず、学校やちょっとした本で得た知識と、挨拶程度の言葉と、たくさんの文化や人々に触れ、たくさんのことを学びたいという意欲だけは十分に持って訪れました。
でも、私にとってオーストラリアは、未知なる国にかわりはありません。だから不安は募るばかりでした。
しかし、何よりも期待していたことがあります。それは、「出会い」です。オーストラリアでは、たくさんの人々に出会い、交流の中で国際感覚を身につけよう、ホームステイでは積極的に話しかけよう、そして異文化の中での新たな発見をしよう、そういう思いで胸をいっぱいにして、日本を旅立ちました。
そして、スタディセンターへ着きました。「もうすぐホストファミリーと会う。」と思うと、いてもたってもいられません。唯一の不安だけが脳裏を駆けめぐります。それは、これからの生活のうえで重要になってくる言葉のことです。「果たして私の英語で、十分に通じ合えるだろうか?」と不安は募るばかりでした。
いざホストファミリーと対面し、初めは自分から挨拶すらかわすことができませんでした。私はただ微笑むだけで、どうしたらいいのか分かりませんでした。でも、早くホストファミリーの人達に溶け込みたいという気持ちは十分ありました。不安でいっぱいだった私に、家へ向かう車の中でお母さんから“How was your flight?”と質問され、私は“Very smooth. But,I wasvery tired.”と答えました。私は言葉が通じたことがとてもうれしくて、喜びを隠すことができませんでした。決して難しい会話とはいえません。でも、私にとってどんなに簡単な言葉でも、言葉が通じた喜びはとても大きなものでした。また、お母さんの気遣いによって私の不安だった気持ちがだんだんと薄れていくのが分かりました。
それから家に着き、二週間という長いようで短いホームステイが始まりました。実際、ホームステイでは、風呂の入り方一つとってみても日本とは違い、私は今まさに、異文化の中にいるんだと実感することができました。でも、何よりも日本と違うのは、使う言葉です。ホームステイが始まってから2〜3日の間は、速くて聞き慣れないイギリス英語で話しかけられるので、緊張の連続でした。その上、家に上がると、「遠慮」という日本人の悪い癖が出てしまいました。しかし、オーストラリアの人達は違います。陽気で、どんどんと話しかけてきてくれ、話すきっかけを作ってくれます。

日本人が苦手な「積極性」を持っていました。

また、人間の表情は豊かなもので正直なものです。嬉しい時や楽しい時は微笑み、

悲しい時は泣くといったように、私が理解できていないことに気付き疑問を持ちながらも表情で読みとり、辞書を引きながら手とり足とり分かるまでとことん教えてくれたことは今でも忘れることができません。そして、表情は大切なもので不思議なものでもあると思えてきました。

またこの時、分からない時は積極的に聞こうというチャレンジ精神が生まれてきたのです。外国(オーストラリア)では、日本とは違い「以心伝心」という甘い考えは決して通らないこともクリスマスパーティやニューイヤーズイブパーティなどで痛感しました。
それから、自分から行動に移していかなければ何も始まらないということも知りました。どんなに簡単な英語からでもただ伝えようとする気持ちさえあれば、オーストラリアの人達は、それに絶対応えようとしてくれます。でも言葉の壁は厚いもので、しゃべる速さや微妙な発音の違い、その上知っている単語の少なさに悩まされたりもしました。でも、どんな時もホストファミリーは暖かく接してくれ、一人の日本人ではなく、家族の一員として見てくれました。また、ホストファミリーはよき理解者でもありました。
そして、別れの日はいつの間にか、すぐそこまで迫っていました。私は最後に手紙をお母さんに渡しました。「これで最後なんだ。」と思った瞬間、今まで精一杯我慢していた涙がぼろぼろとあふれだしました。そうするとお母さんがいつものように優しい言葉と深い愛情で私を強く抱きしめ、“Come back anytime.”と耳元でゆっくりと言ってくれました。これは、何よりも嬉しい言葉であり、今では忘れることのできない言葉として残っています。
私は今回、出会いの中で新たな発見をすることができました。一つは自分自身の「力」です。いくら勉強を積んできたとはいえ、自由にコミュニケーションできる力は限りなく少ないことに気付くことができ本当によかったと思っています。もう一つは、人々とのふれ合いを通じて自分自身「積極性」に欠けていることを実感することができました。また、色々な発見をしてみて、どの発見にも「挑戦」という一つの共通点がありました。自分自身が色々なものに挑戦したからこそ新たな発見を得ることができたのです。
人々の文化や生活に直接触れ、言葉の壁を乗り越えながら親しく交流でき、今回の「海外E&S研修」に参加した者として、このうえない喜びを感じています。このような体験は、私にとって日本人であることを自覚すると共に、柔軟な発想で考えることや未知なるものに挑戦することの大切さを実感する絶好の機会であったと思います。今回の「海外E&S研修」の参加にあたり、私に素晴らしい貴重な体験を与えてくださった全ての関係者の皆さんに心から感謝しています。

オーストラリアinビックリ箱

12番 角 崎 多 加 子

日本時間の12:30に観音寺駅に集合、壮行式の後13:06観音寺駅を出発、岡山駅、新大阪駅を経て16:31無事に関西国際空港に到着。いよいよ20:00発の飛行機でビックリ箱の中へと向かうのでした。

飛行機はブリスベン経由でシドニー国際空港に到着、バスでシドニー空港へ向かい10:55の飛行機でメルボルン経由でアデレードに無事到着。今度はバスでエリザベスへと向かいました。スタディセンターにバスが到着するともうすでに何人かのホストファミリーは迎えにきていました。それから30分くらいした私は自分のホストファミリーと出会いました。この時からでした。ホームステイ中に私が6つのビックリ箱を拾ったり貰ったりするようになったのは。
ビックリ箱の1つ目は、車から見える景色を眺めているうちに気づいた自然現象の一つでした。それは「なぜオーストラリアの土の色は赤いのか?」でした。どうしてもその色の起源が知りたくてホストファーザーに聞いてみると、なんとオーストラリアで初めて酸素がつくられ土の中の鉄分と反応したため土の色が赤いということが分かりました。
ビックリ箱2つ目は、自然と人のかかわり方でした。現代の日本において自然環境は大切だとよく言われますが、結局は人と自然の大小関係は人>自然となっています。しかしオーストラリアでは人と自然に大小関係はなく、人と自然がうまく共存しあっています。たとえば、道などは木があるから木を切り倒そうとするのではなく、遠回りしてでも木を切り倒さないようにしようとしていました。
ビックリ箱3つ目は、クリスマスホリデーや土曜日、日曜日などの休暇の過ごし方が「休暇」という文字の意味そのままだということです。特に驚いたのは、日本ではクリスマスともなると企業などがセールだのバーゲンだのとしますが、オーストラリアではほとんどの街の機能が停止してしまいます。別の意味で心からクリスマスを楽しんでいるという感じがしました。
ビックリ箱4つ目は、手作りにこだわっているところです。それにただ手作りというだけではなくサウス・オーストラリア人が作ったというところにもこだわっている点から自分たちが住んでいる州に誇りをもっていることを知りました。
ビックリ箱5つ目は、羊の数で言われてもよくわからないので単純に言うとオーストラリア人1人に対して羊1〜2頭の割合です。私のホームステイ先の家でもアルパカと羊を飼っていました。毛を刈る作業を見ていると簡単そうにしていますが実は大変な作業だということがわかりました。
最後のビックリ箱は、オーストラリアではよく起こる自然現象の一つ自然発火です。ホームステイ最終日、みんなでテレビを見ていると急に無線で何かの連絡がはいってきたなと思っていると、ホストファザーとマザーが急にいなくなってしまい、その後数台の消防車が通り過ぎたと思ったら、今度はヘリコプターの音がしました。それがただの火事か自然発火かはわかりませんでしたが、ただ私がホームステイしている間ほぼ毎日のように消防車のサイレンの音を耳にしたような気がします。
このホームステイ中、ほとんどビックリすることばかりであっという間の2週間でした。これからは、オーストラリアのシンボルでもあるカンガルーとエミューのように前進あるのみで学校生活を送っていきたいと思います。

私の家族 in AUSTRALIA

13番 勝 田 麻 土 加

私は、生まれて初めて日本から出た。オ−ストラリアはとても広大だった。私が行ったところは、サウスオ−ストラリア州のアデレ−ド、エリザベス city だ。
私の家族は、6人だった。Britta、Nic、Gary、Matthew、Jasmine、Christopher。子供が4人もいた。毎日がとてもにぎやかな家庭だった。私は、子供たちの世話(といっても遊ぶだけ)が大変だった。
毎日いろいろなところへ遊びに連れていってくれた。まず、ホストファミリ−に初めて会った日の23日は、クリスマスパレ−ドを見に連れて行ってくれた。初日ということもあって、とてもぎこちなかった。私も緊張していて、ホストファミリ−が話しかけてくれてもなかなかうまく答えられなかった。
25日のクリスマスの日は、海へ行って釣りをした。その帰りに、日本の寺院に寄って写真を撮った。クリスマスの夜、私は家族の一人一人にクリスマスプレゼントを渡した。みんな日本のプレゼントをとても喜んでくれた。私も、ブ−メランや大きなバスタオルなどのクリスマスプレゼントをもらった。この日は、ディナ−がいつもより豪華だった。チキンも出た。私の家は比較的、肉類より野菜類やパン系だった。エビやサラダ、チキン、飾り付けもきれいだったので写真を思わず撮ってしまった。
27日は、クラスのみんなでムンノパラショッピングセンタ−へ行った。日本の家族と友達に葉書を出した。オ−ストラリアのショッピングセンタ−は変わっている。郵便局が中にある。あと、肉屋さんが別にある。美容院もある。とても便利だなあと思った。
28日は、3:30pmごろに、宏美が私の家にきた。一緒にディナ−を食べた。そのあと家族が部屋で宏美と2人にしてくれて、Momの手作りバナナビスケットを出してくれた。久しぶりに日本語で話せてなんか落ち着いた気分になった。その日は、10:00pmごろに宏美が帰った。
29日は、レクリエ−ションパ−クへ行った。そこで宏美の家族と一緒にバ−ベキュ−をした。エミュ−を放し飼いにしていた。エミュ−を追いかけたり、サッカ−をしたりした。エミュ−は前進しかできないことが分かった。
31日は9:00pmから、アデレ−ドへ行った。人がたくさん集まっていた。バンドを見て、1997年を迎えるカウントダウンをした。“10,9,8,7・・・A HAPPY NEW YEAR!”と言って日本より少し早い新年を迎えた。そのあと海で、花火を見たりして過ごした。
1月1日は、海へ行って泳いだ。お好み焼きも作った。あまり評判はよくなかった。ちょっと残念だった。
2日は、アデレ−ドで一番にぎやかなランドル・モ−ルへ行った。ここでは、買い物をたくさんした。
3日は、さよならパ−ティをした。浴衣はなんとか着ることが出来た。さよならパ−ティでは、少しアクシデントやカットはあったもののうまくいった。新体操もみんなに披露した。少し緊張したけどうまくできた。
いよいよホ−ムステイ最後の夜となった。やっと、言葉が通じ始めて、みんなと仲良くなれたと思ったのに・・・。うまくいき始めた頃は、もう日本へ帰る準備をしなければならなかった。スタディセンタ−へ行って、今までのホ−ムステイについて家族で話していた。15日間は、あっという間だった。バスに乗るときは、とてもつらくて泣いてしまった。MomとChristopherが2年後に、日本の私の家を訪れてくれると言った。私もオ−ストラリアへ必ず戻ると約束した。
私のもう一つの家族。2年後までに英語がもっと話せるようになっておきたい。あと少し、ホストファミリ−を待つ。

私の夏

14番 合 田 有 花

私にとってこの海外研修は一生で一番の思い出となるだろう。

12月22日の朝、私たちは出発した。そのときは、オ−ストラリアへ行くという実感が全くなく、電車や飛行機の中で友達とぺちゃくちゃしゃべっていた。12月

23日、飛行機の中で目を覚ますと、もうそこはオ−ストラリアの上を飛んでいた。飛行機の窓から海や街が見えた。すごくきれいだった。シドニ−空港へ着いて、そこからメルボルンへ行き、次にアデレ−ドへと向かった。もう少しでホストファミリ−と対面だというのに、私はまだ実感がなかった。アデレ−ド空港からスタディセンタ−までバスで約1時間ぐらいかかった。スタディセンタ−へ着いたとき、ホストファミリ−がもう何人か迎えにきていた。ホストファミリ−が迎えにきた人から次々にホストファミリ−の家へ行った。友達はどんどんいなくなってあと5人ぐらいになったとき、私のホストファミリ−が来た。その時初めて、オ−ストラリアへ来たんだなあという実感がわいてきた。私のホストファミリ−は、2人の若い夫婦で、すごくやさしい感じの人たちだった。でも、初めて会ったときは、全く英語が通じなくて、これで約2週間、ホストファミリ−の人たちとうまくやっていけるのだろうか?という不安でいっぱいだった。だから、がんばってどんどん話しかけていった。私とホストファミリ−との会話は、ほとんど単語並べの会話だったけど、お互いの気持ちを理解できたと思う。私のホストファミリ−はすごく陽気な人で、たくさんペットを飼っていた。犬3びきにネコ1ぴき、それから、たくさんの小鳥とたくさんの魚で、もうそこは動物園みたいだった。

約2週間のホストファミリ−との生活で一番心に残ったことは、私と私の友達ゆきのといっしょにホストファミリ−に日本料理を作ったことだ。2家族分もの料理を作らなければならなかったので、すっごく大変だった。私たちは、そうめんとすしと肉じゃがをつくった。そうめんと肉じゃがは成功したけど、すしはちょっと失敗した。オ−ストラリアには炊飯器がなかったので、鍋でお米をたこうとした。けれど、鍋の底をこがしてしまい、下の方のごはんは、ちょっとこげくさかったので、ピラフにした。上の方のごはんは、まだなんとか食べれそうだったので、すしにした。ホストファミリ−は「おいしい」と言って、いっぱい食べてくれたけど、顔がひきつっていたんで、たぶんおいしくなかったと思う。でも、自分たちが作った日本料理を日本じゃない、オ−ストラリアの人たちに食べてもらって、なんかすっごくうれしかった。私たちもいっしょに食べた。ひさびさの日本料理だったので、すごくおいしかった。 次に心に残ったことは、海へ泳ぎに行ったことだ。オ−ストラリアの海は、すごくきれいで、広くて、ゴミなんて1つもなかった。日本の海とでは全くちがう。日本は海が黒っぽいけど、オ−ストラリアのは透明ですきとおっていた。1、2時間ぐらい泳いだり遊んだり、砂に埋めてもらったりもした。もっともっと海で遊びたかった。
私は、この海外研修に参加できて、ほんとうによかったと思う。こんな貴重な体験はなかなかできないと思う。また、2週間、お世話になったホストファミリ−や、コ−ディネ−タ−の人、矢部さん、先生たち、それから、費用をだしてくれた親に感謝したいと思う。

オーストラリア日記

15番 小 西 梓 美

私は、オーストラリアへ行くのが信じられなかった。だんだんと景色が変わっていき、最後にアデレードへついたとき、ものすごい実感がわいてきた。日本では、見られないものがずらりとならんでいてまるで夢を見ているようだった。
school center へ行き host family と会う前、すごく緊張していやになった。わけは、英語に全然自信がなかったからだ。そして待っていると1人目の家族がきて、2人目に私の所の家族がきた。もう行かなければならない、と思うとものすごくドキドキした。私の家族は夫婦と子供2人。6歳と2歳だった。車に乗ってさあ出発、母の方がたくさん話しかけてきた。全然わからなかったので、ただ笑っているだけだった。6歳の子とも車の内で話をした。「いい家族だなぁ。」と思い始めた。私は景色の方が気になり、窓の外を見て、初めて英語で話した。“Beautiful。”あまりにも景色がきれいだったので、つい言葉に出た。でもそれがよかったのか、みんな笑顔になった。
それからもう家に帰ってさっそく子供たちと遊んだ。クリケットというゲームのルールを教えてもらい、やった。とても楽しかった。
私は、ポートピアという町へ家族の人と行って1週間くらいそこで過ごした。母の実家だと思う。すごい田舎だ。行く時に突然止まって、降りろと言われたので降りると、大きなとかげを見た。触ってもみた。「すごーー」と日本語で言ってしまった。向こうの人もみんないい人だった。クリスマスは、ここで過ごすのかーとおもった。2mぐらいのツリーがあり、日本では、考えられなかった。その日、バーベキューを食べた。クリスマスの朝、起きると、突然ビデオをとられてプレゼントをたくさんもらった。すごい数のプレゼントだった。日本とは全然違うと思った。それからpartyをした。楽しかった。
私は草原みたいな所にある一軒家の牧場を訪れ、馬に乗せてもらった。ずぅーっと走っている間、日本のことなんて頭になかった。niceと何回も言った。最高のクリスマスだった。
こんな自然と触れあった日々が何日か続いてエリザベスへ帰る日がきた。なんかとてもつらかった。
家に着いた。なんかわが家のようにリラックスができ、落ち着いた。英語もだいぶ慣れて来た。私が、言おうとしていることをほとんどわかってもらえた。
NEW YEAR'S PARTY にはたくさんの人が来てワインやビールをたくさん飲んでいた。カウント10をとってクラッカーをパーンと鳴らした。“A HAPPY NEW YEAR.”と言って夫婦同志がkissをして、次に私の所へきてキスをした。それからみんなで踊り出したりして元気になった。私は、眠くなったので寝た。1月1日は、何もしないでみんな寝ていたので日本へ帰りたくなった。最後の日、初め、父の仕事場の中にあるプールへ行って泳いだ。昼もみんなで食べ、いよいよお別れ。父とは先にお別れをした。とても辛かった。そして学校へ行くとみんな泣いていた。私は手紙を家族の人に、渡すと抱きしめられて“Thank you.”と言われた。とても暖かかった。そして、とても辛かった。友達と遊んだ日々やドライブに行ったときや、いろいろ楽しいことばかり思い出した。バスの中では外を見るのが辛かった。
たった18日だったけど、私をとてもかわいがってくれて嬉しかった。また会いたい。大人になったら絶対もう一度オーストラリアへ行こうと思った。

私のホームステイ18日間

16番 近 藤 薫

私のオーストラリアでのホームステイは、びっくりすることばかりだった。

私の家族はとても多くて、パパとママの他に子供が6人もいた。親戚や、友達のい家の人と友達になったし、オーストラリアの文化をも知ることができた。
オーストラリアでは個人を大切にするので、自分の意見をきちんと述べなければならないし、自分が言ったことには責任をとらなければいけないということが分かった。でも厳しい面はこれくらいで、あとは日本での生活に比べて、すばらしく、楽しい充実した生活となった。日本では、なにも目標をもっていなかったし、ただなんとなく学校へ来るだけの生活であったのが、オーストラリアではなにもかもがガラリと変わって、オーストラリアに来たという実感がわく間もなかった。とまどったのは最初のうちだけだ。わからないことだらけだったけど、ホストファミリーが、分かるまで教えてくれたから、生活していく上で困るようなことは何ひとつなかったし、本当に家族として接してくれてとてもうれしかった。
オーストラリアで私はクリスマスパーティーにもニューイヤーズパーティーにも行った。夏だったので、クリスマスの実感なんて絶対わいてこないだろうと、思っていたら、全くの予想外だった。家にはツリーがあって、その下にプレゼントを置いておく。朝起きたら、何か騒がしいので部屋から出ると、みんな、自分のプレゼントを探していた。でも、兄弟同志で、プレゼントの交換はしないらしい。お父さんはイブの夜遅くまでかかって、子供のためにブランコと滑り台を裏庭にとりつけていた。お父さんの兄弟の家族や、近所の人まで手伝っていたのですごくびっくりした。近所の人はクリスマスイブとニューイヤーズデイにも来たし、私がクリスマスネオンを観に連れていってもらうときも一緒に来た。ちょくちょく家に遊びに来ていた。近所の人と仲がよいので驚いた。
オーストラリアでは、水が貴重だ。でも、夏の暑い時などは、かけあうのだ。服を着たままで。ホストファミリーが、庭の木に水をやっていて、外に出たら、ホースから水をかけられた。みんな、ずぶぬれになったりした。水をかけあうのは、一種のコミュニケーションなのか、ことあるごとに、水風船やら、氷やらが登場した。パーティの時は、いつもといっていいほどぬれた。
私がこのようにたくさんの思い出をつくることができたのは、ホストファミリーのおかげとしか言いようがない。みんな明るくて、楽しい人達だった。ファミリーのことは、私が年をとっても、絶対に忘れられないだろうと思う。できれば、またオーストラリアに行ってホストファミリーと会いたいと思う。
でも、日本に帰ってきて、生活が元通りになるのは嫌だから、小さいことでも、なにか目標を見つけて、生活したいと思っている。
私は二週間というとても短い間ではあったけれど、あの素晴らしい家族の一員になれたことを、とてもうれしく思っている。文化の違いでとまどったことも数知れずあったけど、不安より、楽しい思い出のほうがたくさんある。
ホームステイはとても人間的に成長できたし、楽しかった。とてもよかったと思う。

オーストラリアでの体験

17番 斎 藤 会 美

観音寺駅を出発したのがつい昨日のことのように思われますが、はや1カ月が経とうとしています。何がなんだかわからないままオーストラリアへ行き、18日間を過ごし、帰ってきて、気がつけばまた日本の学校でいつもと変わらず勉強しているのです。

12月22日、あの日の胸のドキドキは今も忘れられません。あの感動を再び思い出し、オーストラリアでの未知の体験を語ろうと思います。
一歩足を踏み入れればそこは未知の世界。見たことのない街並み、人々、驚きと感動で胸一杯でした。そして何がなんだかわからないうちに、ホストファミリーと出会い一緒に生活してきました。
その中で、胸に忘れられない感動が一杯刻みこまれました。出会ったときに思ったことは、ホストファミリーはすごくゆっくり英語を話してくれるということでした。少しの不安と緊張を胸に車に乗り、家まで帰りました。みんな本当に親切で、すごくよく気を遣ってくれました。わからない言葉は辞書を用いてくれて、私がわかるまでゆっくりと話してくれたり、聞いてくれたりしました。それが何よりもうれしかったです。特に娘は、私の言いたいことをよく分かってくれ、理解してくれました。オーストラリアでは一番の理解者でした。
本当に信じられませんが、衣・食・住どの生活も向こうのポリシーで生活しました。日本とはかなり違った面もありました。一番良かったこと、見習いたいと思ったことは、家族みんながお互いに助け合いをしていること、日本とは違い、夫婦間の仲がすごく良く、父が何でもするのには驚きました。そうじ、料理など。そして食事の後片づけを娘や息子が手伝っていました。やはりそいう習慣はすごくいいなあと思いました。私はすごくオーストラリアの生活が気に入りました。
でも、そういう生活をするにあたってやはり嫌だなあと思うことは、自分の英語が不十分だったことです。クリスマスパーティーやニューイヤーズパーティーの席でたくさんの人々に話しかけてもらったけど、きっちりとは話し返せませんでした。それが少し残念でした。
それにしても、外国のクリスマスパーティーやパーティーなどの豪華さには驚かされました。街へ行くとクリスマス商品などがたくさんありました。やはり、クリスマスは外国人にとって盛大なものなのだなあと心底思わされました。クリスマスにはいろいろな経験をすることができました。
オーストラリアのイメージは、始め、「あったかくて、動物もいて、きれいなところだなあ。」と思っていました。そして、自分が実際にオーストラリアに行くことで、そのイメージがぐっと良くなりました。人々に対するイメージが特に強く変わりました。人々はすごく優しかったです。それもうれしかったです。
本当に私はこの冬、オーストラリアですばらしい経験ができました。そして、もっともっと英語を勉強し、再びもし私のホストファミリーと出会うことができれば、私はすごく幸せです。その時には、英語も完璧に話せ、困ることなく生活できればいいなあと思います。
胸の内にはしまいこめないほどたくさんの思い出があるのですが、写真を見るたび、あの感動がよみがえってきます。一言では言えないですが、楽しかったです。いつかきっとまた自分のホストファミリーに会えることができる日を楽しみにしています。

楽しかったホームステイ

18番 佐 川 夏 美

オーストラリア出発前、私にはホストファミリーから手紙が来なかった。だから、ホストファミリーに会うまで、どんな人たちだろうとすごく不安だった。ドイツからホームステイに来ている人がいたのには驚いたけど、ホストファミリーはとても優しそうな人たちで安心した。英語が話せるかどうかとか、みんなと会話が出来るかとか、心配だったけど、いっぱい話しかけてくれたので嬉しかった。

初めてコアラを抱いたこと、いっぱい食べて苦しかったクリスマス、アデレードのショッピング、卓球をしたり踊ったりして盛り上がった大みそか、さよならパーティやその後ホストファミリーに私のゆかたを着せたことなど、どれも楽しく思い出に残っていることばかりだ。その中でも、特に印象に残っていることが2つある。
1つ目は、海へ行ったことだ。オーストラリアの海は、日本の海と違って透き通るような青さで、砂もサラサラで、ごみがひとつも落ちていない。その美しさには本当に驚いた。私は、Hayley といっしょに泳いだり、ボートに乗ったりして遊んだ。波がとても大きかったので、ボートが勢いよく流されておもしろかった。私のメガネが流されて困ったこともあったけど、Hayley が見つけてくれてよかった。楽しかったけど、日焼け止めを塗るのを忘れていたので、夜、赤くなってヒリヒリして痛かった。
2つ目は、私が日本料理のすき焼きとちらし寿司を作ったことだ。ちらし寿司は、ごはんにちらし寿司の素を混ぜただけなので簡単だが、すき焼きの方は、5ミリくらいの厚さがある牛肉、白菜、だいこん、こんにゃくだけの具で本当にうまく料理できるのか不安だった。でも、お母さんやお父さんに手伝ってもらってなんとかできた。食べるときも、ドキドキしながらみんなを見ていた。

“Good.”と言ってくれてほっとした。そして食事の後、みんなが“Thank you.”と言ってくれた。そして、Brett が私の電子手帳で調べて「ありがとう」と言ってくれた。私は、お手伝いなど、ぜんぜんできなかったし、お礼なんかあまり言われたことがなかったのですごく嬉しかった。

私は、オーストラリアで日本ではできないようなことをたくさん体験した。しかし、みんなの英語を聞いていると自分の英語に自信がなくなり、自分から積極的に話しかけることがあまりできなかったのが残念だった。単語の意味も分からないのが多くて、よく辞書を引いたり、引いてもらったりした。だから、これから、一生懸命英語を勉強して自信をつけたい。そのために、まずは単語とその意味を覚えたい。そして、もう一度、オーストラリアへ行ってもっとみんなと話がしたい。

Australiaが与えてくれたもの

19番 佐々木 徳 子

飛行機の中から見る広大なオーストラリア――。これから約二週間、私に何を与えてくれるのだろうか。そう思いながら、私のオーストラリアでの研修が始まりました。
想像していた以上に、広く美しいオーストラリアに私は、毎日が感動の連続でした。とても青く澄んだ空、夜には、日本では、見ることのできないくらいたくさんの数の星を見ることができました。そして、どこまでも続く大地、透きとおるような海、まるでオーストラリア人の人柄を表しているような風景が、今も私の記憶の中に、そのままの形で残っています。
私は、オーストラリアに出発する前に、二つの目標を決めていました。一つは、異国(オーストラリア)の文化を学ぶということです。もう一つは、語学力を高めるということです。何カ月も前から、オーストラリアでの日常会話の勉強をしたとはいえ、本当に自分の伝えたいことが英語で現地の人に理解してもらえるのかという不安はとても大きかったです。そして、ホストファミリーは、私を温かく、本当の家族のように迎えてくれるだろうかという不安もありました。
私のホストマザーは、アシスタントをしていたので、他の友達より先にアデレード空港で対面しました。飛行機の中で、友達と最初のあいさつの言葉を考えていたけれど、ホストマザーと対面した時は緊張して、“Hello. Nice to meet you.”としか言うことができませんでした。こんな私だから、ホストファミリーとの生活は、とても大変でした。
最初の頃は、ホストファミリーの話している英語がなかなか理解できないし、自分の言いたいことも伝えることができませんでした。ホストファミリーが何を言っているのか分からないのに、返事をしたこともありました。それに、初めての海外生活で、一日がとても長く感じ、早く日本に帰りたいと何度も思いました。その頃の私は、スタディセンターで、友達に会うことが、唯一の楽しみでした。しかし、ホストファミリーは、いつも笑顔で、親切に私が理解するまで教えてくれました。ペンと紙を持ってきて絵を書いたり、ジェスチャーで、十分というぐらい説明してくれたこともありました。
二週間目ぐらいは、少しずつ相手の言いたいことが理解できるようになりました。そして私も、単語をならべただけの文章だけど、相手に伝わるようになりました。私の英語が伝わったときは、とても感動し、その頃からは、自分から積極的に話そうという気になりました。自分の伝えたいことが相手に理解してもらっただけで、こんな気持ちになるなんて、改めて今、私達があたりまえとして使っている言葉が、とても重要なことだということを知ることができました。
ホストマザーは日本語を勉強していて、日本のことについてよく知っていました。自分の国に興味を持ってくれていることに、とてもうれしくなり、オーストラリアについてもっと知りたいと思いました。
オーストラリアでの生活の中で、私はたくさんの人と知り合うことができました。知り合ったすべての人が陽気で、親切な人ばかりでした。日本人の私を、仲間のように笑顔で声をかけてきてくれたことが印象に残っています。ただ道を歩いているだけの人に“Hi.”と声をかけてきてくれたりしました。さすがオーストラリアだなあと思いました。
ホストファミリーとの別れの日も、いつも通りスタディセンターまで家族といっしょに車で行きました。スタディセンターに着いた時、私は何とも言えない気持ちになり、自然に涙が出てきました。ホストマザーが私を抱きしめながら、「また必ずオーストラリアに帰っておいで。」と言ってくれました。私は今、オーストラリアに家族がいることを誇りに思っています。
今回、私にとって必ずしも満足のいくホームステイではありませんでした。しかし、自分の語学力のなさを気づくことができたことと、少しだけど国際感覚を身につけることができた面では、とても良かったです。これは、多民族国家のオーストラリアだからこそ身につけられたのではないでしょうか。自分の語学力など、すべてに対して自信がついた時に、もう一度家族のいるオーストラリアに帰ろうと思います。 私はオーストラリアで、日本では見つけることができない重要な何かを見つけたような気がします。今はそれが何なのか分からないけど、これからゆっくり考えていこうと思っています。

オーストラリアでのホームステイ

20番 真 田 圭 子

私のオーストラリアでのホームステイは本当にすばらしい思い出になりました。オーストラリアは思っていた以上に本当にすばらしい国でした。そして私のホストファミリーも、またそのすべてのファミリーも、とてもよい人たちでした。私のホストファミリーは、本当はPoppaとNannaの2人だけど、わたしがホームステイをしている間、退屈をしないようにと孫のDanielも一緒に、ステイしてくれていました。去年も同じようにステイしてくれていたそうです。Danielは、何でもスポーツができます。歌を歌うのが好きで、車の中で友達のSteveとよく歌を歌っていました。ごはんは、いつもPoppaがつくります。Poppaのごはんはとてもおいしくて最高でした。私がスタディセンターへもっていくサンドイッチも、私は大好きでした。Nannaがごはんのかたずけをしているときなど“Can I help you?”と言ってもNannaはいつでも「しなくていいよ。あなたはホーリデーを楽しみなさい。」と言って、全てしてくれました。
私の家族は、私のために、いつも何か計画をしてくれていたので、私は、すごく楽しむことができました。行くところ行くところが初めて見るところばかりで驚くこともありました。オーストラリアは広くて公園がたくさんありました。公園というよりゴルフ場といったかんじで、ものすごく広いのです。そのうえ、すごくきれいで、どこにもゴミが落ちていないので、日本でゴミを捨てるみたいに小さなゴミでさえ捨てる事ができませんでした。
クリスマスパーティーやニューイヤーパーティーでは必ず水のかけあいをしました。最初は水風船だったのが、最後にはクーラーボックスを使っていました。ちょっと油断をしていると、すぐかけられます。生卵を使った時もありました。とても楽しかったです。
クリスマスが、私たち日本人以外で、みんながコソコソ話をしていたので、“What?”と聞いても“Secret.”といって、教えてくれませんでした。玄関のチャイムが鳴ったとき、私たち4人が「出て」と言われ、ドアを開けるとサンタクロースがいました。すぐPoppaと分かったけど、あの時は本当に楽しかったです。このように、いつも私たちを楽しませてくれました。
どうしようと不安に思ったことはあったけど、楽しくないと思ったことは、一度もありません。一日一日とみんなと過ごすことのできる日が、減っていくのをとてもつらく感じました。一つ自分でも不思議に思ったのは、ホストファミリーの家が、時間が経つうちに、もう自分の家のように感じるようになっていって、日本でも家に着くと落ち着くように、ホストファミリーの家に帰ると、すごく安心するようになっていました。私が、ずっと何年も住んできた家みたいにすっかり慣れていました。それは、たぶんPoppaやNanna、Danielがとても温かかったからだと思います。
言葉を多くしゃべれなくても、また少し聞き取れないことがあっても、私たちは、いつも笑っていて、いろんなことを楽しむことができたし、冗談を言い合うこともできました。
私はこんなすばらしい家族に出会うことができて本当に幸せでした。絶対にみんなと過ごしたことは忘れません。
そして、いつか絶対にオーストラリアへ帰ります。