・ NO.1 1995.5.29 ・
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新緑が鮮やかに映り、すがすがしい空気が感じられる季節になりました。このたび本校同和教育部では、全校生および教職員の方に、「ヒューマン・ライツ・ノート」を発行することになりました。「人が幸せにいきる」ということを考える視点を、年6回にわたって掲載します。
さまざまな観点から、「ヒューマン・ライツ」つまり「人権」をとらえたいと思います。これを読んでの感想や意見など、是非お寄せください。なお、表題は南先生が作成しました。また、記事は本校職員が担当します。よろしくお願いします。

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いつの日か、かならず−

吉野 源三郎

未開のころ、人間は夜の暗さをどうすることもできなかった。火を使うことになって、人間はやっと暗やみにうちかちはじめた。そして今日、人類の文明は夜の暗さを征服してしまった。
しかし、世の中には、まだ暗やみがある。夜の暗やみにおとらないやみがある。人間の世の中が、人間を不幸にしているという暗さは、まだ残っている。
だが、この暗やみだって、人類は征服できないわけではない。未開人が火を手に入れたように、今日の人類は「人間のとうとさ」をすでに知った。このとうとさを、どこまでもつらぬこう。そのためのわたしたちの知恵、わたしたちの努力、わたしたちの協力がぐんぐんのびてゆけば、それだけ世の中のやみはしりぞいてゆくのだ。そして、いつの日にか、いまの暗さもかならず征服されるだろう。いつの日か、かならず−。
たれもかれもが力いっぱいに
のびのびと生きてゆける世の中
たれもかれも「生まれてきてよかった」
と思えるような世の中
じぶんをたいせつにすることが
同時に人をたいせつにすることになる世の中
そういう世の中をこさせる仕事が
きみたちの行くてにまっている
大きな大きな仕事
生きがいのある仕事
 
 

1995年は「国際寛容年」です。

さて、今年は国連の定めるところによる「国際寛容年」と言われていますが、この「寛容」とは、どういう意味でしょうか。

日本の社会は、昔から「出るクイは打たれる」という諺もあるように、他人と違ったことをしたり、目立ったたりすると、周囲から冷たい目を向けられるという風習があります。今でもその考えは、私たちの日常生活に浸透しているような気がしています。しかし、このような考え方が、「いじめ」や「さまざまな差別問題」など、現代社会の歪みの多くに結びついているのではないでしょうか。

多くの国では、自分と他人は異なっているのが当然であるという社会的な認識の上に、人間関係が成り立っています。異なっていることは、当然のことであり、とても素晴らしいことであるいう考えです。そこから、多様な価値観が生まれ、多様な生き方が生まれ、そしてそれを認めあうことにより、人はより人間らしくいきられるのだと思います。

ところが、「他人と自分は同じであるべきだ」という考えで、人間関係がスタートしたら、どうなるでしょうか。このような社会は、一見とてもよく秩序が守られているようですが、実際は誰もが、楽しく生活しているとは必ずしも言えません。私たちが、日頃何気なく使っている「あの人は変わっている」とか「あの子は浮いている」といった表現は、やはり「他人と自分は同じである」という考えの現れでないでしょうか。

「寛容」とは、「他人の言動を許す」ことではありません。「自分以外のものを100%受け入れる」ことが「寛容」です。相手が自分と異なっていることを、自然に受け入れることができるような社会こそ、ほんとうに人間らしい社会なのではないでしょうか。
私たちは、学期に1回、年間3回、LHRの時間に「人権」を守るために考えていきます。今学期は6月16日(金)に実施します。1年生は、「人権」とは何か、それを守るにはどうすればよいかを「マザー・テレサ」から学びます。2年生は、今までに学んだことの積み重ねとして、「同和問題ついて」、3年生は「部落解放について」学びます。   LHRでの学習を通して、正しい知識と理解を深めてほしいと思います。