1998.3.13

最近中学生や高校生の学校に関係した事件が、たびたび新聞に載るようになりました。生徒と先生そして学校はどうなっているのでしょう。今回は、日本国憲法が制定されてすぐの1948年から1953年までの間、中学生および高校生の社会科教科書として使用された文部省著作教科書「民主主義」という本の一部を載せてみます。

はしがきから

では、民主主義とはいったいなんだろう。多くの人々は、民主主義というのは政治のやり方であって、自分たちを代表して政治をする人をみんなで選挙することだと答えるであろう。それも、民主主義の一つの現われであるには相違ない。しかし、民主主義を単なる政治のやり方だと思うのはまちがいである。それは、みんなの心の中にある。すべての人間を個人として尊厳な価値を持つものとして取り扱おうとする心、それが民主主義の根本精神である。人間の尊さを知る人は、自分の信念を曲げたり、ボスの口車に乗せられたりしてはならないと思うであろう。同じ社会にすむ人々、隣の国の人々、遠い海のかなたにすんでいる人々、それらの人々がすべて尊い人生の営みを続けていることを深く感じる人は、進んでそれらの人々と協力し、世のため人のために働いて、平和な住みよい世界を築き上げて行こうと決意するであろう。そうして、すべての人間が、自分自分の才能や長所や美徳を十分に発揮する平等の機会を持つことによって、みんなの努力でお互いの幸福と繁栄とをもたらすようにするのが、政治の最高の目標であることをはっきりと悟るであろう。それが民主主義である。そうして、それ以外に民主主義はない。

 

 

「民主主義の教育」の実践から

これまでの日本の学校では、先生と生徒との間に概して大きなへだたりがありすぎた。先生は、単に先生であるというだけで、なにか生徒とは別の人種であるかのように思われ、ただ敬いおそれられるというかたむきがあった。生徒は、先生の言うとおりに勉強し、そのいいつけを守るという受け身の立場に立つだけで、先生や他の生徒といっしょになって学校生活を改善していくというような積極的な気風は、あまりみられなかった。もちろん、例外もあったには相違ないが、「三尺下がって師の影を踏まず。」という東洋風の師弟の道徳律が支配していて、先生と生徒との間の人間としての親しみと理解とを妨げていたことは、否定できない。しかられたり、悪い点をつけられたりするのがこわさに、表向きだけは先生の前でかしこまっているが、陰では先生の悪口を言い、ひどいあだ名をつけておもしろがるというようなふうがあった。

しかし、人間の平等と人格の尊厳という民主主義のたてまえからいうならば、先生も生徒も同じく人格の持ち主としてはまったく対等であり、その間に本質的な上下の差別はない。社会生活の一員として、人間らしい生活を営む権利を持ち、それぞれの個性を伸ばし、自分の受け持つ責任をまっとうしていくべき立場に立つ点では、師弟の間になんのへだてもない。そのように、先生と生徒とが、同じ人間としての立場に立ってこそ、お互いの間に深い親しみがわき、信頼と愛情とが通うようになる。先生と生徒が人間としての信頼と愛情とによって結ばれてこそ、日々の学校生活を明るい楽しいものに築きあげていくことができる。それがまた、ひいては、広い社会生活の正しいあり方とも一致するのである。

それと同時に、先生は先生であり、生徒は生徒であって、その間に受け持つ役割の違いがあるということもまた、真実である。生徒は、これからだんだんと知識を学び、いろいろな教養を身につけ、りっぱな社会人としての人格を作りあげていかなければならない。それには、家庭では父母の学校では先生の指導と助言とが必要である。先生は、学問のうえではもとより生徒の先輩であるし、社会人としても生徒よりもはるかに多くの経験を積んでいる。したがって、先生がりっぱな人格を持ち、すぐれた実力を備え、しかも、生徒の性質と要求をよく理解し、生徒の人格を尊重して誠意と愛情とをもってこれを導くならば、生徒もしぜんに先生になつき、先生に対して尊敬と信頼とをいだくようになるに相違ない。そうすれば学校の中にも型にはまった命令や強制によらない、人間性のしぜんにかなった礼儀と秩序とが行われるようになるに違いない。

人間の社会には秩序がなければならない。封建社会には、生まれながらの身分による上下の階級の差別があって、それによって、支配者の思いどおりになる支配・服従の秩序が保たれていた。民主主義の社会には、もとよりそのような身分や門地による人間の差別はまったく存在しない。それは、人間の本質的な平等を、一般に認めあうことによって作りあげられた共同生活なのである。しかし、民主主義の社会にも、各個人の能力や人格や経験の高下、大小に応じた秩序がなければならない。すぐれた才能と、深い経験と強い責任感とを持つ人が、みんなから推されて重い任務を持ち、おおぜいの人々を指導する立場に立つのは、当然なことである。学校ではそういう意味で、先生が生徒を指導するのである。学校生活を貫くものは上からの強制による秩序でもなく、わがままかってを許す無秩序でもなく、先生と生徒との間の人間としての責任と尊敬とを基礎とする民主的な秩序でなければならない。

しかしものごとの真理は容易に発見できないものだし、人格の完成ということも、どこまでいっても限りはない。したがって、先生だからといってなんでも知っているわけではないし、修養をする必要もないないほど完全な人格者であるはずもない。もしも、なんでも知っているような顔をする先生があったとすれば、それはけっしてほんとうの教育者ではないのであろう。先生は、むしろ、知らないことは知らないといって、生徒とともに真理をつきとめようとする共同研究者の立場に立たなければならない。先生が自分の知っていることだけを生徒に切り売りするよりも、生徒といっしょになってものごとを研究していこうとする方が教育の効果はずっとあがる。先生は、文字どおり生徒より先に生まれ、生徒よりながい間学問をしてきたのだから、先生の方が多くの知識を持っているのはあたりまえである。それよりも、真理に対する燃えるような熱意が、おのずから先生に対する生徒の尊敬と信頼との的となるのでなければならない。そういう先生を持てば、生徒もそれに感化されて、自分たちの力で真理を見いだしていこうと努めるであろう。かくて、先生と生徒との真剣な協力による、はつらつとした楽しい授業が行われるようになるであろう。

 

 

戦争後の荒れ果てた社会から、理想に燃えて、良い社会を建設しようという意気込みが伝わってくる内容だと思います。あまりに理想主義的だという気がしますが、心にとめておきたいものです。(同和教育部)