令和2年度第2学期始業式辞(8月19日(水))

 今年の2学期は例外的に早く始まることになった。文化祭も行えないが、3年生にとっては本格的な進路選択に向かって動き始める時期となった。とは言え、国公立大学を志望する皆さんにあっては、来年3月の後期試験まで見据えた根気強い努力が求められるということは忘れずにいてほしい。また、1年生と2年生の皆さんには、坂出高校のモットーである「高邁自主」の精神の下で、学業と部活動や生徒会活動等を両立させるという気持ちを忘れず日々精進していってほしい。
 さて、今回から数回にわたって皆さんに香川県が生んだある偉人の話をしようと思う。その人の生涯は、時代背景とも相俟って実に波乱万丈なものであるとともに、その思想等について大いに学ぶべきところがあると思うからである。
 そのある人というのは、南原繁(なんばら しげる)先生である。坂出という中讃地域にあっては、その名を知る人は少ないと思うし、香川県でもその名を知る人はごく限られていると思う。その理由の一つは、南原先生が現在の東かがわ市(以前の大川郡引田町)相生(あいおい)という香川県の東の端、徳島県との県境のご出身だからである。  私がなぜ南原先生の話をするかというと、先生の出身である三本松高校にかつて勤務した経験があり、坂出高校の校長室に『我が歩みし道 南原繁』という650ページにも及ぶハードカバーの本を発見したからである。なぜその本が坂出高校にあるかはさほど重要でもないので、早速先生の略歴について紹介する。
 南原先生が生まれたのは、明治22年(1889年)なので今から132年前。坂出高校の開校が大正6年(1917年)なので、本校よりも年齢がいった方ということになる。尋常小学校、高等小学校等に学んだ後、12歳で香川県立高松中学校大川分校(2年後に大川中学校として独立)に入学。自宅から片道3里ほど(約10km)を徒歩通学で通う。無欠席だったとのこと。17歳で卒業後、第一高等学校(現在の東京大学教養学部)に入学。20歳で東京帝国大学法科大学政治学科(現在の東京大学法学部)に入学。大正3年に24歳で卒業するわけだが、その年に第一次世界大戦が勃発している。卒業後は文官高等試験(現在の国家公務員試験上級)に合格し内務属(現在の総務省)に入る。27歳で志願して富山県射水郡の郡長(市長と県知事の間のような職)になるも、2年後に内務属に呼び戻され「労働組合法」草案の作成にかかわる。31歳の時、内務属をやめ東京帝国大学法学部助手となる。元々、研究に身を置きたいという希望があったとのことである。2年間ほどの留学期間中の大正12(1923年)に関東大震災が起こっている。その後帰国し、35歳で東京帝国大学教授となる。時代は昭和へと移り、昭和6年(1931年)の満州事変、翌年の五・一五事件、昭和12年(1937年)の盧溝橋事件、そしてついに昭和16年(1939年)の第二次世界大戦、2年後の太平洋戦争へと進む。まさに「戦争の時代」と言われることがある昭和の激動期である。その昭和20年3月、太平洋戦争末期(終戦は8月15日)に法学部長に選出される。さらにその年の12月に東京帝国大学総長となり、62歳まで6年間の任期を全うした。戦後は昭和21年に公布された現在の日本国憲法の下での教育改革にも影響を与えた。亡くなられたのは昭和47年(1974年)、84歳の時であった。
 南原先生の講演や随筆をまとめた『我が歩みし道 南原繁』は先にも言ったように650ページにも及ぶものであるが、私がそれを読み通せたのは先生の言葉や生き方・考え方に共感するところが多々あったがためで、生徒の皆さんや先生方にもぜひ紹介したいと思ったからである。
 先生は、「相生」という地が香川県でも高松以西の地方(「西讃」と呼んでいる)に比べて道路交通網が不便で文化も発達が遅れていたとか、自身の家が没落しており読む本もなかったというふうに何か所にも書かれているのだが、言葉遣いや使っている漢字が非常に難しく、私も解釈に苦労したことがたびたびあった。今日は一つだけ、南原先生が、第二次大戦後の紀元節(現在の建国記念の日)に東京大学の学生に向かって話したことを紹介する。原文ではわかりにくいと思うので、私の解釈を交えて紹介する。
 日本人が今回の戦争で敗北し、自己に対する尊敬や自信を失い、自暴自棄に陥っているようなところはないだろうか。振り返ってみれば、満州事変以降軍部の台頭以来、日本民族の神話や伝統を濫用し、曲解し(曲げて考えること)日本民族の優越性を大げさに叫び、アジアとひいては世界を支配するべき運命を持っているかのように言ってきた。しかし、それは「日本人のみが選ばれた民族である」という誇大妄想以外の何物でもない。このような考えの下で第二次大戦が始まり、現在の国の崩壊に至ったのである。このような事態に至ったのは、軍や一部官僚、政治家の無知と野心からではなく国民自身の内的欠陥にある。そしてその欠陥とは、日本人一人ひとりが一個独立の人間としての人間意識の確立と人間性の発展のなかったことである。元来人間の思想の自由と政治的社会活動の自由は、この人間意識から生まれるものである。しかしながら、日本においては人間個人が固有の国の形の枠にはめられ、個人の良心の権利と自己判断の自由が著しく拘束を受け、人間性の発展はなされなかった。国民は少数派の虚偽に導かれその指導に盲従してきたのだ。この点において、日本は近代西洋諸国が経験したルネッサンスを見ることがなかったと言えるだろう。
 すなわち、日本を戦争へと導いたのは軍部の言論統制や思想の統制によるところが非常に大きく、個々人で自由にものを考えることが許されなかったせいであるということを言っている訳である。
 このような演説を終戦後間もない時期にしたこと自体、南原先生が日本を戦争へと導いた軍部の存在がないかのように堂々と持論を展開した度胸が窺われるとともに、何よりも現在ではごく当たり前に考えられているヒューマニズムの精神を見て取ることができると感じる。少し難しいと感じる人もいるかもしれない。この話は、また本校のホームページに掲載しておくので、興味がある人は読んでもらいたい。
 今日からの学校生活、皆さんの一人ひとりがしっかりと目標をもって最後まであきらめないという気持ちで頑張ってくれることを期待している。


 


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Last-modified: 2020-08-19 (水) 11:50:00