前回のつぶやきから1ヶ月も経ってしまいました。 この間に、部員たちは「[[高校生のフォトメッセージコンテスト>http://www.tjf.or.jp/photocon/index.htm]]」に応募する作品を仕上げ、3名が1次審査を通り、うち1名が奨励賞を受賞しました。((この「[[高校生のフォトメッセージコンテスト>http://www.tjf.or.jp/photocon/index.htm]]」は第10回(10年)となり、取りやめとなることが決定しているようです。とても残念です。))みんな粘り強くよく頑張りました。⌣ さて、と・・・・ 記録あるいは記憶の価値とは何なのでしょう。私の見た風景や出会った人たち、発見したものは、私にとってはとても大切なものだったりするのですが、他の誰かにとって大切なものとは限りません。私が感じ、留めたいと思った「美しさ」や「不思議さ」は他の人には取るに足らないことなのかもしれません。 もしも見る人が同じような環境や感性を持っていたなら、その人は自分の記憶と重ね合わせることによって私の写真を見てくれることでしょう。自分の子どもの写真を見せ合う親たちのように、何の抵抗もなく受け入れることができるかもしれません。しかし、そうではない多くの人たちにとっての価値ある記録とは、ある普遍性をもっているように思われます。 大山先生はそれを「心にさざ波を立てる」と表現しておられました。実際、いつまでたっても見飽きない写真というものは存在し、うっかりすると涙が流れそうなことがあります。これはいったいどういうことなのでしょう。それは行ったこともない場所、会ったこともない人であったり、見慣れた風景、よく知っている人であったりするわけで、「知っている」のか「知らない」のかは全く関係ないようです。((・・・いや、もしかしたら心の奥底で「知っている」のかもしれませんが・・・)) 価値観は時代とともに、あるいは地域によって変わりゆくものです。ですが「喜び」「怒り」「哀しみ」「楽しさ」「不安」「愛情」・・・変わらない心のありようというものもあると思います。このような人としての普遍の心に接することができた時、記憶を留め置く手段であった写真は、見る人の心を揺さぶり、自分自身の心をも再確認することができるのかもしれません。 写真は「心」~ 今の私を写し出す鏡、見る人の心が共鳴したら素敵なのに~ Photo is KOKORO. RIGHT:(2007.02.10)~ H.Toyoshima ---- -[[前のつぶやき>文化部/写真部/_顧問の独り言/2007-02-10]] -[[前のつぶやき>文化部/写真部/_顧問の独り言/2007-01-05]] //-[[次のつぶやき>文化部/写真部/_顧問の独り言/2007-03-]]