10月全校集会講話(10月1日(月))

 近頃、どうも「漢字が思い出せなくなった、書けなくなった。」ということを強く実感するようになった。その原因を考えるに、パソコンの普及というものを抜きにすることはできないと思う。  学校に始めてパソコンが入ったのは、(少なくとも自分自身の経験からでは)昭和59年12月であったと記憶している。(今年は「昭和」で言うと、昭和93年だから、34年も昔になってしまった。)当時、デスクトップ型のパソコンが仰々しく学校に入ってきた様子が今でも思い出される。ちなみに、ワードプロセッサー、今で言うワープロはパソコンではなく、ワープロ専用機で、当時70万円ほどするというのを聞いたことがある。何人かの先輩は持っていた。  それで、パソコンの話だが、その年の4月に教員になった頃には、どういう仕組みかいまだにわからないが、テープレコーダーのテープに記憶されたプログラムを、コンピュータらしきものに覚えこませ、それからデータの入力を行うという、現在から考えると想像もつかないような方法で成績処理を行っていた。  しかも、その入力したデータは保存できなかったらしく、私が一度、校内実力テストの成績入力の当番になった時、同僚の一人がコンピュータからコンセントにつながったケーブルを足でひっかけて抜いてしまい、200人ほどの3教科(国数英)の成績を一から打ち直したことを覚えている。

 近頃では、スマートフォンの登場(平成23年初期型?)によりさらにコンピュータが身近なものとなり、日常生活の中で「少しでも時間があればスマホをいじる」人が中高生をはじめとする若い世代だけでなく、大人世代にも及んでいるという記事を新聞で読んだ。  本校では、進路指導部を中心に「隙間時間を利用した学習」を呼び掛け、実際にその成果が卒業生の進路状況にも表れているところである。坂出高校では、携帯電話・スマートフォンは、電源を切ったうえで校内に持ち込みを認める、「許可制」をとっていることから、校内では「隙間時間を使ったスマホいじり」は決してないと考えているが、電車で登下校する皆さん。隙間時間をスマホに奪われてはいないだろうか。

 先に話した新聞記事の中では、60分以上の隙間時間・待ち時間があれば、「本を手に取る」という回答の方が多く、自分としては少し安堵した。

 現在、コンピュータは実に様々なところで−素人には想像さえつかないようなところで−使用されていると考えられるので、「コンピュータの使用をやめる」などという話はあまりにも非現実的なものであろう。したがって、私たちが心しておかなければならないのは、その利用の仕方であろう。高校である皆さんには、「コンピュータ(電子機器)を使わないでいい時には、それを使わない」ということを徹底して行ってほしいと願う。例えば、「電子辞書でなくて紙の辞書を使う」こと。これは私が英語を教えてきた経験から言うことであるが、国語の場合にも同様ではないかと考える。紙の辞書を引くことによって、その周辺にある単語が見える。調べた語の派生語がその周辺に掲載されている、というようなことがよくある。これは、電子辞書では得ることのできない「恩恵」である。  また、「Lineではなく、対面して話す」ことも重要である。コミュニケーションというのは、実は言葉によるものは非常に小さく、表情であったり、口調であったり、話す人の醸し出す雰囲気であったりと、言葉以外の要素が言葉以上の役割を果たすものである。Lineによる言葉は、何の感情もこもらない「ただの言葉(文字?)の羅列」に過ぎない。その言葉に真の意味を与えるためには、対面による話以外にはない。Lineによる言葉のやり取りを真のコミュニケーションと考えている人は多いと思う。私ははっきり、「それはコミュニケーションとは言えない。」と断言したい。繰り返しになるが、コミュニケーションというのは、「自分がどう思っているかということを相手に分かってもらうこと」が目的である。例えば、友達と前から約束していたことについて、「明日は、どこそこで、何時ね。」という確認程度ならLineでやり取りしても構わないと考える。自分の気持ちをLineという道具で文字にして送って、相手に理解してもらう、ということはあり得ない。また、皆さんが社会人になった時、上司に「今日は熱があるので休みます。」とLineで(電子メールも同様だが)送るなどということはあり得ない。私は今話していることがどの程度皆さんの共感を得ているかについて、大変不安である。「校長は何を言よるんや?」と思っている人がいてもらっては困る。すべての人の共感を得なければならない。なぜなら、「Lineによる言葉のやり取りがコミュニケーションである」と考える人が日本人の多数派になってしまうとき、「日本という国は崩壊するのではないか」という危機感さえ覚えるからである。

 これは私も皆さんにそんなに偉そうに言えないけれど、「手書きで済ませられるときには手書きする」ことをすすめたい。最初に言った「漢字が出てこない」というのは、まさにこれに尽きる。漢字は中国伝来ではあるが、日本人が大切にして後世に伝えなくてはならない最も貴重な文化の一つである。しかし、私も年賀状は手書きの一言を添えるだけである。それが自分自身の考え−本来年賀状は全て手書きすべきである−に対するささやかな言い訳である。なぜなら、ワープロ打ちしただけの年賀状は本気で見ることはないからである。また、近頃では「絵文字」というのが日常的に使われているようであるが、ともかく、自分で漢字を書くということが非常に重要な意味合いを持つものであると考える。

 私は、高校というのは皆さんが社会に出るにあたって、きちんとした教育を施す最後の砦であると自負して教育に当たってきた。この姿勢は最後まで貫くつもりである。大学は「教育機関」であるとともに「研究機関」であるため、皆さんの教育にどれほど力を入れているかどうかは大学によりまちまちだからである。皆さんのほぼ全員が進学する坂出高校であるから、本日はあえてこういう話をした。




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Last-modified: 2018-11-01 (木) 12:17:04