校長室から

240409 入学式式辞(校長室から)

2024年4月9日 17時00分

説明がありません

式  辞

 桜花爛漫となった本日、ここに、PTA会長 佐竹 直人 様のご臨席と、保護者の皆様のご列席を賜り、香川県立坂出高等学校 令和6年度入学式がこのように盛大に挙行できますことを、教職員一同を代表し、心から御礼申し上げます。

 只今、普通科228名、音楽科16名、計244名の入学を許可しました。皆さん、入学おめでとう。心からお祝い申し上げます。

 皆さんが入学した坂出高校は、大正6年、1917年に、香川県立坂出高等女学校として開校しました。その後、幾多の変遷を経て、戦後の昭和24年、高等学校再編成により現在の校名となり、男女共学の学校となりました。また、昭和42年には音楽科が設置され、現在の坂出高校の形になりました。今年度、創立108年目を迎え、国内外の様々な分野で活躍する29,000名を超える卒業生を輩出してきた伝統校です。そのような坂出高校の一員として、本日皆さんを迎えることができ、大変うれしく思います。

 さて、坂高生となった皆さんに、これからの高校生活の指針として、是非とも知っておいてほしい言葉があります。それは、正門を入って右側の石碑に刻まれている言葉で、坂出高校のモットーであり、校歌にも歌われている「高邁自主」という言葉です。
 「高邁」とは、「気高く、高潔なこころざし」という意味で、「自主」とは、「人から言われるのではなく、自分の判断で自ら行動を起こす」という意味です。
 つまり、「高邁自主」とは、「高いこころざしを掲げ、自主・自立の精神をもって、その実現に向け努力する」ということです。坂高生はこの言葉を胸に、学業、部活動、学校行事などに向き合い、成果を挙げてきました。皆さんも先輩に倣い、今日からこの言葉を実践してほしいと思います。

 そして、「高邁自主」を実践するうえで、大切となる心構えが「パティマトス」です。「パティマトス」とは、正門を入って正面にある石組みに刻まれた言葉です。
 今から59年前に、創立50周年を記念して、当時の校長が本校で学ぶ生徒に贈った言葉です。「パティマトス」はギリシア語で、「英知は苦難を通じて来たる」という意味です。つまり、「高いこころざしを実現するためには、苦しい努力が必要である」ということです。

 「高邁自主」と「パティマトス」、これが坂高生の精神、坂高スピリットと言えます。これからの高校生活において、もし道に迷うようなことがあったとしたら、この言葉は、きっと皆さんの道しるべとなり、進むべき道に導いてくれるはずです。

 現在、社会は、グローバル化やAIをはじめとする技術革新が急速に進み、未来を  予測することが非常に困難な時代を迎えています。さらに、世界各地で多発する紛争や内戦の問題のみならず、貧困問題や環境問題など、世の中は混沌とした様相を呈して  います。このような時代において、皆さんが将来をたくましく生き抜いていくためには、様々な課題に対して主体的に関わり、他者と協働して、解決に向けて粘り強く取り組んでいく力が必要となります。
 この力は、「高邁自主」を基盤においた本校の教育活動によって培うことができると確信しています。

 皆さんが、学業、部活動、学校行事や生徒会活動に十分に励み、社会で活躍する人材に成長することを望んでいます。

 保護者の皆様、お子様の入学、誠におめでとうございます。民法の改正により、法律的には、18歳になると成人として扱われ、自分で判断し行動することが求められるようになります。それだけに、高校3年間で、お子様には自主・自立の精神を養い、責任のある態度を身につけることが求められます。ご家庭におかれましても、適度な距離を置きつつも、お子様に対して、時にきびしく、時にあたたかく見守ってください。また、ご家庭と学校が十分に連絡を取り合い、お子様の教育を進めてまいりたいと思いますので、ご理解とご支援を賜りますよう、お願いいたします。

 最後に、新入生の皆さんが今日の感激と感謝を忘れることなく、学業に、また人間形成に大いに励み、充実した素晴らしい高校生活を送ることができるよう期待し、式辞とします。

令和6年4月9日

香川県立坂出高等学校長 渡邉 謙

240408 始業式式辞(校長室から)

2024年4月8日 17時00分

説明がありません

 おはようございます。いよいよ新年度がスタートしました。ついこの間、春休みに入ったばかりのような気がしていましたが、いつのまにか、桜の開花、満開を告げるニュースが聞こえてきて、あっという間に今日は始業式です。

 新3年生の皆さんは、いよいよ最終学年として、高校生活の集大成となる学年です。進路決定の大切な時期であるということは言うまでもありませんが、ただそれだけに終始するのではなく、残された高校生活を仲間たちと十分に楽しみ、たくさんの思い出をつくってください。

 新2年生の皆さんは、坂高生の要として、学校行事に、部活動に、その中心的存在となって活躍してください。明日は新入生が入学してきます。伝統ある坂出高校の先輩として、リーダーシップを発揮してください。

 さて、新年度に当たり、皆さんに、私から2つのことをお願いしたいと思います。
 1つ目は、「何事にもチャレンジ精神で前向きに取り組んでほしい」ということです。
 そのためには、「自分に自信を持つこと」です。でも、自分は何をやってもだめ、がんばっても続かないと、積極的になれないことがあります。どうしたら自分に自信を持つことができるのでしょうか。
 自信を育てるには、自分との約束を守っていくことです。相手との約束を守ると相手との信頼関係が生まれるように、自分との約束を守ると、自分への信頼感が生まれます。
 小さなことでも、少しずつコツコツと成功体験を積み上げていってください。
 例えば、朝、友達や先生方に気持ちの良いあいさつをする。迷惑をかけたときは、素直にあやまる。授業を真面目に受ける。掃除をきちんとする。などなど、まずは日常の、小さな、でも大切なことを一つ一つ実行していってください。そして、そういったことの積み重ねが自信につながり、皆さんをきっと前向きにしてくれると思います。

 2つ目は、「感謝のこころを持つ、そして、ことばにする」ということです。
 私たちは、ともすれば、何気ない毎日を当たり前のように受け入れてしまい、ときに、自分の思いとは違う場面に出くわすと、自分の運のなさを嘆いたり、相手を責めたりしてしまいます。でも、そもそも私たちが生まれてきたことが、ここにいるということが、当たり前のように日常を送れているということが、「有り難い」こと、つまり、「ありがとう」といえることではないでしょうか。
 相手や自分を責める前に、日々おだやかに過ごしていることに、こうしてみんなと出会えたことに感謝のこころを持ち、「おかげさま」とことばにしていきましょう。そうして、まいた感謝のタネが、やがて幸せの実を結び、皆さんに返ってくると思います。

 皆さんは、若いです。これからも悩んだり、寂しくなったり、思い通りにいかないこともたくさんあると思います。でも、そんなとき、すぐあきらめたり、投げやりになったりせず、少し立ち止まって、今日お話ししたことを思い出してください。

 幸せは、意外に、私たちのすぐそばにあるのかもしれません。

 それでは、皆さんが充実した学校生活を送ることを強く希望して、話を終わりたいと思います。

校長室から(R04~R05)

220406令和4年度 第1学期始業式(校長室から)

2022年4月7日 00時31分
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令和4年度 第1学期始業式                       4.4.6

 この3月は感染症対策のため、卒業した先輩方との別れが十分にできなかったり、部活動が制限されたりと窮屈な生活だったのではないでしょうか。本日から部活動で他校との交流が可能となりますが、引き続き、マスク着用、黙食などの感染症対策は続けていきます。協力よろしくお願いします。

 さて、4月1日に民法が改正されて、成年年齢が18歳に引き下げられました。この中にも、成年になった人がいるのかもしれません。成年年齢の引下げによって、18歳になると、保護者の同意を得ずに様々な契約をすることが可能となりました。具体的には、携帯電話の購入やクレジットカードの作成などです。

 成年年齢引き下げの意図は、これまでも投票権はありましたが、さらに若い人の自己決定権を尊重し、積極的に社会活動に参加してもらうことです。

 現在の社会を見てみると、新型コロナウイルス感染症の拡大やロシアのウクライナ侵攻など、予測できなかったことが起き、さまざまな問題が生じています。このような新しい問題を解決するために、若い人たちの力が求められています。皆さん方が高校を卒業した時には、自己決定権を持ち、社会生活を営んでいかなければいけません。高校生活が社会に出る助走期間としても意味合いがますます強くなっています。

 そこで、坂高生として特に意識して生活して欲しいことを話します。

 まずは、学習面です。学業に全力を注ぐことは、高校生活の大前提です。学ぶことは大学受験のためだけではありません。現代社会では、新たな技術、新たな問題が次々に生まれます、私たちは学び続けるが必要となります。

 そして、「あいさつ」「遅刻しない」「掃除をする」ことです。これらは社会の一員として生活するために当然必要とされるマナーです。

 このような当たり前にできることにプラスして、部活動、学校行事、生徒会活動など、学校生活の中で、何かに主体的に取り組んでみてください。そのなかで、自分の意見を伝えること、他人の意見を尊重すること、そして違う意見の人と折り合いをつけ、多くの人と協力して一つのことを成し遂げる楽しさを味わって欲しいと考えています。

 最後に、伝統を引き継ぐことについてです。2年前、3年生の皆さんが1年生の時、臨時休業、部活動の諸大会の中止、そして、体育祭と坂高祭が中止になりました。それによって、今まで受け継がれてきた伝統を先輩から十分に受け継ぐことができず、2年生になって、手探りの状態で坂高祭をつくり上げていったのではないでしょうか。2年生の皆さんはそのような3年生の姿をから、多くのことを学び取ったと思います。ここにいる皆さんで、一度途切れた坂出高校の伝統を再度紡いで、明日入学する新入生につないでいってください。

 この1年間が充実した時間となるよう全力を尽くしてください。先生方もしっかりとサポートします。

校長室から(H30~R03)

令和3年度2学期終業式講話(12月24日(金))

2022年3月21日 09時37分

 今日は私が長年、正確にはちょうど30年間教員として教えてきた「英語」について話をしたい。自分が英語教員という道を選んだことについても、話せばゆうに与えられた時間を埋めるくらいにはなるが、今日はそちらではなく、純粋に言語としての英語について皆さんと一緒に考えたい。皆さんのほとんどの人は、中学校で本格的に英語の学習を始めたはずなので、まだ学び始めて4年目から6年目のはず。私も始めたのは中学だが、年齢がいっているので、通算で言えば48年目ということになる。自分で言いながら正直、初めてその年月に驚いている。

 私が英語について思うこと。要約すれば、この一言。「なんだかんだ言っても、やはり世界共通語は英語である。」ということに尽きる。英語では、When all is said and done, the tool for international communication is English.ということになろうか。最初はこの文の主語と補語を入れ替えて、「英語は世界共通語」とし、English is the tool for international communication.としていたが、逆の方が実態に合っていると考えて、「世界共通語は英語である」としてみた。主語=補語であり、ともに名詞なので同じと言ってしまえばそれまでかもしれないが。今のご時世では、英語は道具であるという考え方の下で、こういった語法研究などを行っている英語の先生は激減している。もしかすると本県では数人かもしれない。私が教員になったころには、辞書を読み比べている先生がいた。それも数人が。それほど語法研究に熱心であった。本校正門の前にある竹内公平先生も、大変勉強熱心な方で大英和辞典の執筆者の一人である。丸亀高等学校の校長を最後に引退された。毎日のように皆さんの様子をうかがってくださっている。

 さて、再び私が教員になったころの話に戻るが、同じ学校に数学を教えているが、語学にも興味のある先生がいた。その先生が当時興味を持っていたのは、エスペラント語という言語である。皆さんは聞いたことがあるか。私はその時初めて聞いた。何でも、英語を世界共通言語というのか公用語というのか、ともかくコミュニケーションの手段として使用するというのは、英語が母国語である人々には有利に働くが、英語を母語としない人たちにとっては大変不利である。したがって、皆が同じく苦労しなければ修得できない人工言語を世界共通語にしようとするものである、と当時その数学の先生からは聞いたと記憶している。

 今ではいろいろなことをインターネットで調べることができるので、先日その言語について調べてみた。Wikipediaには次のような説明がある。(原文を一部変えている。)

創案者のラザロ・ルドヴィコ・ザメンホフは世界中のあらゆる人が簡単に学ぶことができ、世界中ですでに使われている母語に成り代わるというよりは、むしろすべての人の第2言語としての国際補助語を目指してこの言語を作った。ザメンホフは、帝政ロシア領(当時)ポーランドのビアウィストク出身のユダヤ人眼科医で、19世紀末頃に自著でこの言語を発表した。 現在でも彼の理想を追求している使用者が多くいる一方、理想よりも実用的に他国の人と会話したり、他の国や異文化を学んだりするためのものと割り切って使っている人もかなりいる。今日では異なる言語間でのコミュニケーションのためのほか、旅行、文通、国際交流、ラジオ、インターネットテレビなど、さまざまな分野で使われている。英語を国際共通語として当然視してしまう姿勢への対抗的姿勢が、とって代わるべき国際補助語としてこのエスペラントを持ち出すこともあった。 エスペラントを話す者は「エスペランティスト」と呼ばれ、世界中に100万人程度存在すると推定されている。

 「現在でも約100万人」ということをどのようにとらえるかは人によると思うが、私は世界の人口が79億人に迫ろうとしている中にあっては、かなり少数言語(minority language)の部類に入ると言ってもいいのではないかと考える。それは、日本語について考えても、母国語話者は約1億3000万人。現在世界一の人口である中国には14億人、インドが14億人に極めて近い13億人台である。言語として有名なフランス語やドイツ語について見ても、フランス本国の人口は約6,500万人、ドイツの場合は約8,300万人である。

 それに対して、基本的に英語を事実的に公用語としている国々を見てみたい。もちろん、そこに住むすべての人が英語を話すことができるわけではないということを斟酌しても、アメリカ合衆国は人口規模では3億3,000万人。イギリス6,700万人、オーストラリア2,500万人である。それらを合計すると、約4億2,500万人である。 もし、人口規模だけで「世界の共通語」が決まると仮定すると、現在は14億人を超える人口を抱える中国で使われている中国語、あるいは、中国よりも少し少ないが、やはり14億人に迫ろうとしているインドで、約4憶人が話すとされているヒンディー語などが採用されていても不思議ではない。しかし、世界に約6,000あるとされている言語について語るのは非常に難しく、その「6,000語」にしても確固たる証拠があるわけでもなく、また、学者によっては少数部族が話す少数言語を含めれば、1日に1言語が消えているという文書も見たことがあり、とにかく定かでない。 少し話が広がったが、元に戻したい。結局、現在では実質的に英語が世界の共通言語であるということに関しては、ほぼだれも異論を唱えようのない状況であると思う。皆さんは、これからますますグローバル化する社会の中で、この現実にどのように向き合おうとしているか。もはや、受験英語の好き嫌いとかですまされる問題ではない。以前にも話したことがあると思うが、勉強というのはいったんやめてしまうと、それは一気に衰退の道をたどる。先ほども言ったように、長年英語を教えてくる中で、本当によく言われたことは、「英語の先生ですか。英語ができていいですね。」これは、生徒や保護者から言われることよりも、同僚から言われることが多かった。私は英語の教員になるべく、先ほども言ったように50年近くずっと英語から離れなかったので、たとえ文法や語法の間違いはするにしても、また、英単語は頻繁に忘れていたりするものの、英文を読んだり書いたり、英語を介してコミュニケーションを図ることはできる。これをほかの教科の先生方の多くは大学以来していないので、「私が古典の能力がほぼ0」になっているのと同じく、「英語の能力がほぼ0」になっているということであろう。これは本当に残念な話である。 国としては、中高の6年間英語の学習をしても、日本人の英語でのコミュニケーション能力が向上しないということについて、かねてより非常に大きな危機感を持っている。これは、英語の先生だけに指導力向上研修等の研修が課される場合がとても多いということにも表れている。他の教科の先生にはわからないと思うが。来年度入学生から高等学校で学ぶ教科・科目がかなり大きく変わる。英語だけについて言うと、現在の「コミュニケーション英語」という科目は「英語コミュニケーション」へ、「英語表現」は「論理・表現」へと変わる。これは単なる名称変更ではなく、ともかく英語を実際に使える生徒の育成を目指すということである。趣旨には賛同できるが、早くも英語科の先生方に研修が計画されているようなのが気の毒である。 また、皆さんに英語の勉強の仕方についても話をしたかったが、次回以降に譲ることにする。
 

 最後になったが、1つ紹介しておく。先日、皆さんの先輩である「市役所坂高会」(本校同窓会の坂出市役所支部)から20万円の寄付を頂戴した。昨年度も10万円いただいている。コロナの感染防止対策や、皆さんの教育活動に広く役立ててほしいということである。今回は特に、進学面と部活動の面での活躍を期待している旨のお話をいただいた。本校の卒業生の皆さんは、いつも陰ながら本校そして皆さんのことを気にかけてくださっている。本当にありがたい話である。先生方とも話し合いながら有効に使わせていただきたい。