校長室から

240409 入学式式辞(校長室から)

2024年4月9日 17時00分

説明がありません

式  辞

 桜花爛漫となった本日、ここに、PTA会長 佐竹 直人 様のご臨席と、保護者の皆様のご列席を賜り、香川県立坂出高等学校 令和6年度入学式がこのように盛大に挙行できますことを、教職員一同を代表し、心から御礼申し上げます。

 只今、普通科228名、音楽科16名、計244名の入学を許可しました。皆さん、入学おめでとう。心からお祝い申し上げます。

 皆さんが入学した坂出高校は、大正6年、1917年に、香川県立坂出高等女学校として開校しました。その後、幾多の変遷を経て、戦後の昭和24年、高等学校再編成により現在の校名となり、男女共学の学校となりました。また、昭和42年には音楽科が設置され、現在の坂出高校の形になりました。今年度、創立108年目を迎え、国内外の様々な分野で活躍する29,000名を超える卒業生を輩出してきた伝統校です。そのような坂出高校の一員として、本日皆さんを迎えることができ、大変うれしく思います。

 さて、坂高生となった皆さんに、これからの高校生活の指針として、是非とも知っておいてほしい言葉があります。それは、正門を入って右側の石碑に刻まれている言葉で、坂出高校のモットーであり、校歌にも歌われている「高邁自主」という言葉です。
 「高邁」とは、「気高く、高潔なこころざし」という意味で、「自主」とは、「人から言われるのではなく、自分の判断で自ら行動を起こす」という意味です。
 つまり、「高邁自主」とは、「高いこころざしを掲げ、自主・自立の精神をもって、その実現に向け努力する」ということです。坂高生はこの言葉を胸に、学業、部活動、学校行事などに向き合い、成果を挙げてきました。皆さんも先輩に倣い、今日からこの言葉を実践してほしいと思います。

 そして、「高邁自主」を実践するうえで、大切となる心構えが「パティマトス」です。「パティマトス」とは、正門を入って正面にある石組みに刻まれた言葉です。
 今から59年前に、創立50周年を記念して、当時の校長が本校で学ぶ生徒に贈った言葉です。「パティマトス」はギリシア語で、「英知は苦難を通じて来たる」という意味です。つまり、「高いこころざしを実現するためには、苦しい努力が必要である」ということです。

 「高邁自主」と「パティマトス」、これが坂高生の精神、坂高スピリットと言えます。これからの高校生活において、もし道に迷うようなことがあったとしたら、この言葉は、きっと皆さんの道しるべとなり、進むべき道に導いてくれるはずです。

 現在、社会は、グローバル化やAIをはじめとする技術革新が急速に進み、未来を  予測することが非常に困難な時代を迎えています。さらに、世界各地で多発する紛争や内戦の問題のみならず、貧困問題や環境問題など、世の中は混沌とした様相を呈して  います。このような時代において、皆さんが将来をたくましく生き抜いていくためには、様々な課題に対して主体的に関わり、他者と協働して、解決に向けて粘り強く取り組んでいく力が必要となります。
 この力は、「高邁自主」を基盤においた本校の教育活動によって培うことができると確信しています。

 皆さんが、学業、部活動、学校行事や生徒会活動に十分に励み、社会で活躍する人材に成長することを望んでいます。

 保護者の皆様、お子様の入学、誠におめでとうございます。民法の改正により、法律的には、18歳になると成人として扱われ、自分で判断し行動することが求められるようになります。それだけに、高校3年間で、お子様には自主・自立の精神を養い、責任のある態度を身につけることが求められます。ご家庭におかれましても、適度な距離を置きつつも、お子様に対して、時にきびしく、時にあたたかく見守ってください。また、ご家庭と学校が十分に連絡を取り合い、お子様の教育を進めてまいりたいと思いますので、ご理解とご支援を賜りますよう、お願いいたします。

 最後に、新入生の皆さんが今日の感激と感謝を忘れることなく、学業に、また人間形成に大いに励み、充実した素晴らしい高校生活を送ることができるよう期待し、式辞とします。

令和6年4月9日

香川県立坂出高等学校長 渡邉 謙

240408 始業式式辞(校長室から)

2024年4月8日 17時00分

説明がありません

 おはようございます。いよいよ新年度がスタートしました。ついこの間、春休みに入ったばかりのような気がしていましたが、いつのまにか、桜の開花、満開を告げるニュースが聞こえてきて、あっという間に今日は始業式です。

 新3年生の皆さんは、いよいよ最終学年として、高校生活の集大成となる学年です。進路決定の大切な時期であるということは言うまでもありませんが、ただそれだけに終始するのではなく、残された高校生活を仲間たちと十分に楽しみ、たくさんの思い出をつくってください。

 新2年生の皆さんは、坂高生の要として、学校行事に、部活動に、その中心的存在となって活躍してください。明日は新入生が入学してきます。伝統ある坂出高校の先輩として、リーダーシップを発揮してください。

 さて、新年度に当たり、皆さんに、私から2つのことをお願いしたいと思います。
 1つ目は、「何事にもチャレンジ精神で前向きに取り組んでほしい」ということです。
 そのためには、「自分に自信を持つこと」です。でも、自分は何をやってもだめ、がんばっても続かないと、積極的になれないことがあります。どうしたら自分に自信を持つことができるのでしょうか。
 自信を育てるには、自分との約束を守っていくことです。相手との約束を守ると相手との信頼関係が生まれるように、自分との約束を守ると、自分への信頼感が生まれます。
 小さなことでも、少しずつコツコツと成功体験を積み上げていってください。
 例えば、朝、友達や先生方に気持ちの良いあいさつをする。迷惑をかけたときは、素直にあやまる。授業を真面目に受ける。掃除をきちんとする。などなど、まずは日常の、小さな、でも大切なことを一つ一つ実行していってください。そして、そういったことの積み重ねが自信につながり、皆さんをきっと前向きにしてくれると思います。

 2つ目は、「感謝のこころを持つ、そして、ことばにする」ということです。
 私たちは、ともすれば、何気ない毎日を当たり前のように受け入れてしまい、ときに、自分の思いとは違う場面に出くわすと、自分の運のなさを嘆いたり、相手を責めたりしてしまいます。でも、そもそも私たちが生まれてきたことが、ここにいるということが、当たり前のように日常を送れているということが、「有り難い」こと、つまり、「ありがとう」といえることではないでしょうか。
 相手や自分を責める前に、日々おだやかに過ごしていることに、こうしてみんなと出会えたことに感謝のこころを持ち、「おかげさま」とことばにしていきましょう。そうして、まいた感謝のタネが、やがて幸せの実を結び、皆さんに返ってくると思います。

 皆さんは、若いです。これからも悩んだり、寂しくなったり、思い通りにいかないこともたくさんあると思います。でも、そんなとき、すぐあきらめたり、投げやりになったりせず、少し立ち止まって、今日お話ししたことを思い出してください。

 幸せは、意外に、私たちのすぐそばにあるのかもしれません。

 それでは、皆さんが充実した学校生活を送ることを強く希望して、話を終わりたいと思います。

校長室から(R04~R05)

2207201学期終業式(校長室から)

2022年7月20日 14時47分
1学期終業式式辞(校内放送による)

みなさん、おはようございます。

学校生活に全力を注ぎながらも、新型コロナウイルス感染症対策にくわえて、梅雨が早く明けたことにより、渇水対策、熱中症対策と、多くのことに気遣いしながらの1学期だったのではないでしょうか。

さて、終業式を迎えるにあたり、自分自身が頑張ったこと、出来ていなかったことなど、各自でしっかりと振り返りをしてください。始業式で、皆さん方に求めることとして、社会の一員として生活するために当然必要とされるマナーである「あいさつ」「遅刻しない」「掃除をする」こと、そして、学校生活の中で、何かに主体的に取り組むことにつて、しっかりとやって欲しいと話をしました。現時点でどうでしょうか。振り返りをすることは大切です。その節目として終業式があります。

私も、1学期の振り返りをします。うれしかったことが多かったので、そのいくつかを紹介します。

●地域の人から感謝されたこと(ソフトテニス女子の部員が自転車で転倒して出血しているお年寄りを助けてくれました。また7月にも音楽科3年生がお年寄りを助けてくれました)学校にお礼の連絡があったもの以外にも、きっと他にも、このようなことをしてくれているのだと思います。

●ボランティア活動や国際交流の校外での活動を呼びかけたら、多くの生徒が手を上げたこと。

●インターハイの運営のためにも多くの生徒が協力してくれること。高校運動部の最高の舞台を支えてくれて、ありがとうございます。

●あいさつをしてくれる生徒が増えたこと。みんなと元気にあいさつを交わすことで、私はさらに元気になれます。

●部活動では、結果だけでなく、みんなの頑張っている姿をみることができたこと。

●負けてはしまいましたが、野球応援で多くの生徒が一緒に喜びを分かち合うことが出来たこと。感染症対策で一堂に会して活動する機会が減っています。それだけにみんなとメガホンをたたいて応援できて、私はうれしかったです。

明日から夏休みです。現在はエアコンが整備され、夏休みを短くすることは可能なのかもしれません。しかし、夏休みを40日間とる学校がほとんどです。それはなぜか。皆さん方の自主性を育てたいからです。ゼミや部活動があるとはいえ、かなりの時間の過ごし方を皆さん方に任せます。

3年生はやるべきことは当然わかっていることと思います。6月のマーク模試の結果を見ましたが、自分の志望校に手が届かない人もいました。しかし、それは、県総体が終わった直後の模試での判断です。この夏休みで、どれだけやったかで大きく変わります。学習の成果はすぐには現れませんが、秋には成果が現れてきます。それを信じて、この夏はとことん勉強してください。また、部活動を続けている皆さん、まさに文武両道を実現して欲しいところです。

1年生と2年生ですが、学校が出す課題をすることは当然として、残りの時間をどう使うのかが重要です。1学期の学習で不十分であったところをやり直すことや、さらに力を付けるための学習に加えて、部活動、文化祭の準備と、やることはたくさんあります。自分は何をすべきなのか、しっかりと考えておいてください。そして、1~2年生には、もう一つやって欲しいことがあります。総合的な探究の時間で取り組んでいる内容(2年生なら自分たちが調べて気になったこと、1年生なら職業について)、とことん調べてみてください。必要であれば、実際の会社などに出向いて調べてください。学校での学習、友達同士から入ってくる情報以外の、実際の社会の情報にふれて欲しいのです。

 先日、学校評議員会が開かれました。これは坂出高校を支援してくれる外部の有識者(坂出市役所の職員、保育士、香川大学の先生、坂出商工会議所の役員)から構成され、本校の活動について報告し、助言をもらうための会議です。評議員さんから、生徒が実社会で学ぶことは大切で、高校で学ぶ意欲が高まることや、大学進学などでのミスマッチを防ぐことにもつながる大変意義があることだと、助言をいただきました。また、坂出高校の活動であれば、是非協力したいとおっしゃっていただけました。これは、本校の卒業生と皆さん方が築いてきた信頼のおかげです。

最後に、7月8日、参議院選挙の応援演説中に安倍元総理大臣が射殺されました。そのことについて話をします。容疑者の意図は言論を封じることではなかったようですが、選挙運動中に起きた蛮行で、民主主義の根幹を揺るがす出来事です。民主主義を十分に機能させるための重要な要素の一つが、言論の自由です。制限されることなく自分の考えを自由に発することができることです。言論の自由によって、多様な意見が発せられ、その多様な意見をもとに話し合い、答えを出していくことが、民主主義での、ものごとの決め方です。自分と異なる考えを暴力で封じたり、全く受け入れることがなかったりする状況は、健全な民主主義とは言えません。時間はかかりますが、多様な意見をもとに話し合い、答えを導き出すことが、社会の発展、住みやすい社会の形成に必要不可欠なことです。それが出来ることが、現代社会を生きる私たちに求められている力です。

皆さん方の日常生活、たとえば、部活動、文化祭の準備など、自分たちで考えて行動する機会がたくさんあります。そのような場面で、意見を言うことが尊重され、そこから納得する答えを導き出すことができる集団であって欲しいと思います。

それでは、9月に充実した表情の皆さん方に会えることを楽しみにしています。

校長室から(H30~R03)

平成30年度2月全校集会講話(2月1日(金))

2022年3月21日 09時09分

 普通、カレンダーでは1年は12の月に分けられているが、1年を24等分する24節季という季節の表し方がある。そのうち、多くの皆さんになじみがあるのは、「夏至」「冬至」「春分」「秋分」の「二至二分」というものと、「立春」「立夏」「立秋」「立冬」の「四立」(しりゅう)ではないかと思う。 そのほかにも、「冬ごもり中の虫が目を覚まし姿を現す」日とされる「啓蟄」(3月上旬)や、「穀物を育てる雨が降り、芽を出させる」日とされる「穀雨」(4月下旬)、「寒さが最も厳しい」とされる「大寒」(1月下旬)などは耳にしたことがあるのではないかと思う。

 今日(2月1日)、最も近いのはそのうちの「立春」である。今年のカレンダーでは、2月4日が立春に当たる。「立春」の意味というのは、読んで字のごとく「春の始まりであり、春の気始めて立つ」ということである。「この真冬に」と思う人が多いであろうが、この日から、いや今日から春が始まったという気持ちを持ってもらいたい。

 今日から3年生が「家庭学習」の期間に入った。よく3学期というのは「1つ上の学年の0学期」というようなことが言われるが、それはそういう気構えを持って学校生活を送りなさいという意味である。

 2年生の皆さんにあっては、ちょうど今日から1年後には3年生と同じく「家庭学習」が始まる。ということは、高校生活は実質的に残り1年という意味である。1年生の皆さんは2年生になるということで、後輩ができる。勉強にも部活動にも、また文化祭のような学校行事にも中心となって頑張る高校生活の中核となる学年を迎える。そういうこときちんと意識した生活を送ることを希望する。

 さて、半年近く前の話になるが、校長協会の方からちょっとしたアンケートを依頼され、あるクラスに回答をお願いした。そのアンケート自体は、本校にとって大きな意味を持つものではなかったのだが、パソコンを使って回答の集計処理をして驚いた。それは2つの事柄について。1つは、「あなたの集会での態度はどうですか。」という問に対して、「よく話を聞いている」という答えが4割、後の6割は「静かにしているが、あまりよく聞いていない」というものであった。これには正直、がっかりした。しかし、そのことを言ったある先生から、「じゃあ、先生は高校生の時、校長先生が何を言うかなと、期待していましたか?」と言われた。絶句であった。しかし、この問いは校長の講話だけについて尋ねているものではなく、生徒指導や進路指導の先生方の話、ひいては授業中の先生方の話にも通じているものと考えて「ぞっ」とした。皆さんはそれほどまでに、「人の話を聞いていない」ということか。

 もう一つは、「公共の場(バス・電車等の車内・路上等)での飲食についてどう思いますか。」という問に対して、4割の人が「迷惑な行為だと思うのですべきではない」と答えたのに対して、6割の人が「後片付けをきちんとすればしてもよい」と回答した。断言しておくが、これはしてはいけないことである。私は、若者の文化、若者特有の行動パターンや言葉遣い等をすべて否定するつもりはないが、この行為は明らかに「迷惑行為」である。このアンケートをお願いしたクラスでは、「あなたがルールを守る要因は何ですか」との問に、75%の人が「法律や校則で決まっているから」と回答したが、この行為は、6割の人が回答した「守ることが当然」の行為だからなのである。

 皆さんは、「高校には「道徳」の時間がないから、高校では道徳は教えないんでしょ。」と、思っている人がいるかもしれない。しかし、それは大きな間違いである。高校では、道徳の時間はないけれども、「教育活動全般の中で教える」と規定されている。私は、高校というのは、人生で最後の「教育機関」であると考えている。大学等ではなかなかそこまで面倒を見てくれない。行動の仕方まで注意してくれない。このアンケート結果を参考に、先生方とともに皆さんの今後の指導の在り方を考えていかなくてはならないと考えている。非常に残念な結果であったと認識している。

 皆さんの人生の先輩である先生方(先生というのは本来、先に生まれた人という意味だそうである。)、そして言うまでもないが保護者の言うことをよく聴いて「2年生0学期」「3年生0学期」のスタートとしていただきたい。

平成30年度3学期始業式講話(1月8日(火))

2022年3月21日 09時08分

   皆さん、あけましておめでとう。今年も皆さんが、まずは事故なく健康で、様々な分野で活躍してくれることを期待する。  さて、2学期の終業式で話したこと。「変わる」ということ。どのくらいの人「変わる」ために冬休みを利用できただろうか。急には変革できなかった人の方が多いとは思うが、「変わる」ということは大切なこと。今後とも心に留めておいてほしい。

 今日は3学期始業式にあたり、プロ野球の北海道日本ハムファイターズの監督である栗山英樹さんの著書『栗山魂』から話をする。私としては、栗山さんは同学年で、昭和36年生まれの57歳。しかも、私の中学時代の同じクラスの友だちと東京学芸大学の同級生であるということから、かねてから興味を持っていた方。2017年に出版された『栗山魂』(本校図書室にあり)を読み、彼の生き方、あるいは彼の考え方・言葉が皆さんの参考になると思い、年頭の講話に当たりこの話をすることにした。

 まずは栗山英樹さんという人について。

 小学校時代は自分のお父さんが監督を務める少年野球チームで活躍。エースで4番という絵に描いたようなエリート野球少年。中学に入っても野球を続けるつもりだった。しかし、進学した中学校の野球部は素人の監督率いるレクリエーションのような部。そこで、その学校で強く、当時人気もあったバレーボール部に入部。ところが、途中でけがのためバレーボールを断念。今度は、学校外の硬式野球のチームに入って活躍。 甲子園に出場したいと思っていたので、高校は昨年巨人の監督になった原 辰徳 氏が活躍した名門、東海大相模高校に進学しようと考えた。しかし、上背もない栗山さんが野球人としてのみ生きることを両親に反対され、創価高校へ入学。その学校は東大にも合格者がいる進学校だったようである。また、ちょうど野球にも力を入れ始めていた。 高校ではまずまずの成績を残せた。そこで役立ったのはバレーボール部での経験。跳躍や屈伸の動き、また、身体を投げ出してのダイビングキャッチなどが生かされた。しかし結局、甲子園には出場できず。 ならば、大学は「東京6大学」の1つである明治大学進学を心に決める。しかし、東京学芸大学にも合格し、「生涯野球に携われる指導者=部活動顧問」になるよう両親に説得され、兄も通っていた東京学芸大学に進学。身長も160cm足らず。そこでいったんは教師を目指して頑張ろうという気になったものの、プロへの未練が完全には捨てきれず、教員採用試験を受験せず。  たまたま大学の練習を見に来ていた野球解説者(佐々木進氏=「プロ野球ニュース」のキャスター)の口添えで、西武ライオンズとヤクルトスワローズの入団試験を受けるところまでこぎつけた。そして最終的には、ヤクルトが「面倒を見よう。」と言ってくれた。 「いきなり1軍では無理でも、2軍でならなんとかやれるだろう。」と思っていた考えはあっさり打ち砕かれる。それほど「プロ」の世界は人材が豊富であるということ。そんなことで、栗山さんは、「イップス」という、精神的なものが原因でスポーツの動作に支障をきたす運動障害に陥った。それでも当時の2軍監督が猛特訓してくれたおかげもあり何とか蘇り、ついに1軍に上がった。そこでさらに、若松勉さんという当時の名バッターからスイッチヒッターへの転向をすすめられ、それにも挑戦して成し遂げた。 ところが今度は、難病である「メニエール病」にかかってしまう。この病気は、原因不明のめまいに襲われるそうで、ひどい時には3日に1度、2時間以上も続いたそうである。それでもあきらめることなく練習に励み、入団3年目に1軍に定着した。 そして29歳、プロ野球選手としての実働はわずか9年で現役を引退し、その後は野球解説者に転身した。引退してからはコーチも務めていない、そんな栗山さんが、50歳の時に現在のチームの監督に就いた。プロ野球選手をやめてから21年後のことであった。 監督就任5年目の2016年には途中までの11.5ゲームという大差を大逆転して、パリーグ制覇、そして日本シリーズ制覇を成し遂げた。日本ハムファイターズには、皆さんも知ってのとおり、大谷翔平がいた。高校卒業と同時にメジャーリーグ入りを表明していた大谷選手をドラフト会議で1位指名し、投打の「二刀流」で育成する方針を打ち出して、見事成功に導き、メジャーリーグへと送り出したのも栗山監督である。

 栗山氏は著書の中で、たくさん素晴らしいこと述べているが、その中から2つだけ紹介したい。

 1 「なりたい」と「なる」は、似ているけれども違うものです。「なりたい」という気持ちには、うまくいかないと弱い気持ちが入り込んできます。「ああ、やっぱり僕には無理かなあ」というものです。でも、「なる」という気持ちは、簡単にはぐらつきません。失敗したらもっと頑張らなきゃいけないと自分自身を奮い立たせるし、別の考え方を考えるはずです。両親や先生、監督や友だちといった周りの人たちにアドバイスを求めたりもするでしょう。それが大事なのです。大きな志を抱いていれば、周りの人たちは必ず助けてくれます。夢を一緒に追いかけてくれます。それがまた、「なる」という気持ちをたくましくしていく。夢に向かって突破口が開けてくる。あきらめなければどこかに道があるのです。

 2 中学時代の僕は、プロ野球選手に「なりたい」と思っていました。でも大阪桐蔭高校からドラフト1位でファイターズに入団した中田翔に話を聞くと、「中学時代から俺はプロ野球の選手になると信じていました」と言うんです。大谷翔平は高校生で「プロ野球選手」はもちろんのこと、「世界一の選手になる」と思っていたと。だから彼は、高校卒業と同時にメジャーリーグへ行こうと真剣に考えた。「なりたい」と「なる」には、似ているけれど決して交わらない違いがあるのです。

 もっと詳しく知りたい皆さんは、図書室で本を借りて読んでみてほしい。 年頭に当たり、皆さんの志をさらに高めてもらうきっかけになればと思い、今日はこの話をした。

平成30年度2学期終業式講話(12月21日(金))

2022年3月21日 09時07分

 平成最後の年末が近づいている。平成という時代は、私にとっては教員生活の中核をなす時代だったわけで、この元号があと数か月で終わるということには万感の思いがある。 さて、「歳月人を待たず」の格言どおり、私たちがどのように日々を過ごそうが、月日は無慈悲に過ぎていくもので、過去を振り返った時に「あの時のこうしておけばよかった。」とはだれもが思うことである。私もそれは例外ではない。 しかし、今から話す二つの点だけはこれまで生きてきた中で後悔がないことである。

 一つ目は高校時代の過ごし方。小学生のころから、地元に帰って仕事をしたいと考えていた私は、小学校時代の担任の先生にあこがれて、「小学校の先生になりたい。」と思っていた。しかし、中学校時代の終わり頃までは、勉強にも部活動にも一生懸命になることもなく、日々漫然と過ごしていた。中学3年生になって、いよいよ高校受検が近づいてきたとき、次のように考え始めた。

 「やはり将来は教員になりたい。そのためには、教員免許状を取得しなければならないので、大学に行く必要がある。うちの家庭状況からいって、私立大学はありえないから、国立大学に行かなくてはならない。そのためには小豆島高校のトップクラス(選抜クラス)に入らなければならない。」と。つまり、将来の鳴りたい自分を描いて、そこからが逆算して「今」何をなすべきか、というように考えたわけである。

それが中学3年のいつの時期だったかははっきりとは覚えていないが、夏休みにはまだ火がついていなかった。おそらくは秋ごろだったのではないかと思う。はっきり言って、高校受検は3~4か月一生懸命勉強すれば、かなり結果は変わって来る。私の場合も、平日3~4時間程度の家庭学習を習慣化してから、面白いように成績が伸び、小豆島高校のトップクラスに入ることができた。

 いざ入ってみると、当時小豆島島内3つの中学校から秀才がたくさん集まっており、気後れした。当時は、小豆島から高松高校に出るのは、土庄中学校の上位5名程度だったはずである。したがって、当時の小豆島高校には非常に優秀な生徒がおり、私の2学年上では、現役で京都大学薬学部、大阪大学工学部・基礎工学部(双子での合格で新聞に載った)、1学年上では岡山大学医学部医学科に合格者が出ていたた。神戸や広島、岡山といったところではあまり記憶がないほどである。

 中学後半から火が付いた私の学習への取り組みは、高校入学後も変わることなく、多くの秀才と肩を並べてやっていけるように頑張った。具体的には7月の坂高新聞にも書いたとおりである。その甲斐あって、第1志望校に合格した。現在私がこの場にいて皆さんに話をしているのは、高校時代の頑張りのおかげであると思っている。「江戸時代のように、身分が固定化されていた時代ではない。勉強で人生は変わる。」というのが私の信念の一つである。特に普通科の皆さん、皆さんは基本的には勉強のほかに身を立てる術はないのである。本校普通科に来たというのはそういう意味であることを、改めて確認しておきたい。

 二つ目。これは勉強とは全然違う話である。私は、かつてはヘビースモーカーだった。1日最低でも1箱、多ければ1箱半(30本)くらいタバコを吸っていた。平成15年4月2日、この日付まではっきりと覚えているが、この日突然タバコをやめた。

 特に病気をしたわけではない。きっかけは、当時勤務していた学校でも「分煙化」がなされており、タバコを吸うためには別の小部屋に移動する時間が必要だった。勤務時間中に「15本吸う」場合、移動時間も含めれば1日40分から45分程度の時間を、タバコを吸うために充てていたことになる。今考えると、これは地方公務員法の「職務に専念する義務」違反ではないかと思う。実際にこれが話題になっている自治体もあるようである。

 とにかく、今は「タバコをやめて本当に良かった。」と思っている。それはお金だけの問題でなく、家族を含め他人への迷惑をかけることがなくなったからというのが一番の理由である。また、現在では喫煙は非常に制限された場所でしか認められなくなってきていることも、そう思う理由である。ただ、タバコをやめることは本当に苦しかった。タバコに含まれている成分であるニコチンの含まれたガムというのがあるのだが、それを何箱も噛んだ。当時の額で2万円ほども費やしたと記憶している。

 今話した「勉強」と「タバコ」。私の場合にはそれまでの生活態度や習慣を「大きく変えた」わけだが、それでも「今日までしてきたことを明日から急に」というのは現実としては難しく、普通は「助走期間」というのか「準備期間」が必要なものだろうと思う。

 私の場合にも、勉強を必死で始める前にも、タバコをやめる前にも、やはり「自分は本当にこれでよいのか?」という疑問を相当の期間、持ち続けていた。11月の全校集会の折に「三省」ということについて話した。やはり我が身を振り返るというのは非常に大切なことである。皆さんにはこの冬休みに、ぜひこれまでの自分の「在りよう」について今一度振り返り、変えなければならないことを変えるための準備期間としてほしい。そして3学期から何かしらの自己変革が生じたというようにしていただきたい。余り学校に来ないからこそできることではないかと思う。

 そして、「変わる」ことこそが生き抜くこと。『進化論』で有名なチャールズ・ダーウィンの言葉。「生き残るものは、強いものではない。変化に柔軟に対応できるものである。」生き残る、すなわちこれからの社会で活躍する、もっと普通の表現を使えばこれからの社会で普通に生活していくためには、皆さんも変化し続けなければならない。

 さて、最後になったが、3年生の皆さん。大部分の人が「大学入学センター試験」を控えてラストスパートの時期である。担任の先生方から聞いているとは思うが、いわゆる「現役曲線」。最終の全国模擬試験が終わった11月からまだまだ学力が伸びるのが現役生の強み。それをはかる模擬試験がないだけのこと。「現在も伸びている。そして、これからもまだまだ伸びる」ことを信じて、最後まであきらめることなく、自分で限界を決めることなく、体調に気を付けて頑張ってほしい。

 3学期始業式で、皆さんの元気な姿を見られることを期待している。

平成30年度11月全校集会講話(11月1日(木))

2022年3月21日 09時05分

 平成30年も残すところあと2か月となった。歳月は人がどのように過ごそうが、いつも「あっ」という間に過ぎてしまうもの。かねてから話しているが、この全校集会を一つの区切りとして、これまでの1か月を「反省」し、これからの生活、少し大げさかもしれないが、自分の在りように結び付けてほしい。 今「反省」という言葉を使ったが、「反省」というと、えてして「自分の過去について考察し、批判的な評価を加えること」という意味でよく使われるが、その前に「自分の行いをかえりみること」という意味がある。(「広辞苑」による。)私がいま皆さんに話しているのは、おもに後者の意味である。 皆さんは「三省」という言葉を知っているか。「三省」というのは、論語の第1章「学而第一」の中にある言葉である。それはこのようなものである。 「曾子曰く、吾れ日に吾が身を三省す。人の為に謀りて忠ならざるか。朋友と交わりて信ならざるか。習はざるを伝へしか」と。 いくつか解釈があるようだが、これを現代語訳すると、おおよそ次のようなものになる。「曾子(孔子の弟子)は言った。私は毎日何回も自分の行いについて反省している。人の相談相手になって、真心を尽くしていたか。友だちと付き合って、うそをついてないか。自分が十分に理解できていないことを、人に伝えたり教えたりしていないか。」出版社の三省堂という会社は、この言葉を社名にしたと聞く。我が身を振り返るというのは大切なこと。皆さんにも習慣化してもらいたい。  今日は、最初に2つの事柄について、皆さんをほめたい。  10月23日夕刻、一人のおばあさんが来校された。先日坂出駅付近で転倒したところを、本校3年生の女子生徒に助けてもらい、無事に列車に乗れたとのことでお礼に来られた。  もう一つも似たようなこと。先月の24日の朝、学校に電話があった。土曜日(おそらく10月20日)の夕方、犬を連れて散歩中に、本校の通用門付近で転倒。本校生と思われる高校生に助けてもらったのでお礼を言いたいとのこと。  昨年度も、このような電話があった。「坂出駅で自分の子どもが泣いて困っていたら、本校生が上手にあやしてくれて、助かった。」と。  皆さんのこのような行いは、先ほど述べた「三省」の、「人に真心を尽くしていたか」に相当する部分であり、今話した3件については、まさにこれを実践できたということであり、大変立派なことである。今後とも、自然とこのような行動ができる人であってもらいたいと願っている。  さて、今日皆さんに一緒に考えてもらいたいと思っていたのはここから。 このところ、テレビや新聞などで「カタカナ言葉(英語)」を見聞きすることが多くなったと実感している。特に、官僚や閣僚の答弁、ニュースの解説者などが多用しているように感じる。長年英語を教えてきた私が常々疑問に思うのは、「このような表現が、テレビの視聴者や新聞の読者に正しく伝わっているのだろうか」ということだ。  枚挙にいとまがないが、今から20の例を挙げるので、いくつ日本語に直せるか数えてほしい。

  1 アセスメント(査定・評価)
  2 インバウンド(訪日外国人旅行者)
  3 コンセンサス(合意)
  4 コンプライアンス(法令順守)
  5 ダイバーシティ(多様性)
  6 スペック(仕様)
  7 パブリックコメント(意見公募)
  8 ワーキンググループ(作業部会)
  9 アーカイブ(古文書)
  10 インセンティブ(動機づけ)
  11 エコノミスト(経済学者)
  12 ガバナンス(統治・管理)
  13 エビデンス(証拠)
  14 アカウンタビリティー(説明責任)
  15 アジェンダ(議題)
  16 コミット(約束)
  17 リスク(危険、危機)
  18 コラボ(協働)
  19 ペンディング(保留)
  20 サステナビリティ(持続可能性)

 さらには、「サブスクリプションモデル」(一定期間、継続的に受け取る商品やサービスに対して対価を払うことを意味する。「定額制」の料金形態がこのモデルである。例:月額3,000円払えばコーヒー店で一日一杯のコーヒーが飲める。)とか、「シェアリングエコノミー」(共有型経済:個人間の中古品売買)という表現も新聞等で見かける。 また、アルファベットの頭文字をとった、CEO(最高経営責任者)、IoT(物のインターネット)、iDeCo(個人型確定拠出年金)、NISA(小額投資非課税投資)などという表現も普通に使われるようになったという印象を持つ。 特定の分野の専門家同士でのやり取りにおいて、このようなカタカナ言葉が使われるのは構わない(世間に害はない)と思うが、テレビや新聞という「人に情報を伝える手段(これをメディアというのだが)」において、これらのカタカナ言葉を使うことはいかがなものか。 先月の全校集会でも話をしたが、コミュニケーションというのは意思疎通である。相手にきちんと伝わらないような言葉を使うことは、あってはならない、というか、それはコミュニケーションとはいえない。  皆さんには、しっかりとコミュニケーションができる人になってもらいたい、つまり、皆さんがコミュニケーションの発信者側に立った時には、できるだけこのような分かりにくいカタカナ言葉は使わないようにしてほしいものである。 しかし、とは言え、これらのわかりにくいカタカナ言葉が使われている現状は、今後もある程度は続くものと考えられる。それらのほとんどは、英語に由来している。英語できちんと意味が通じるものとそうでないものに分かれるのだが、コミュニケーションにおいて「受信者側」になるときには、英語を知っていることは、カタカナ言葉(英語)を理解するときには必須である。そういった意味でも、英語の勉強は不可欠である。大学入試は抜きにしても、である。 いつも英語の話になるが、現在は国(文部科学省)の方でも、今後到来が見込まれる「高度情報化社会(Society 5.0)」において、「文理融合」ということを1つのキーワードとして、これからの教育施策が考えられつつある。 英語だけでなく、高校で学ぶどの教科・科目もしっかり学び、「学びが浅かった・十分でなかった」がために、皆さんがこれから生きていかなければならない「高度情報化社会」の中で、取り残されることのないように、「学び」に対して高い意識を持っておいてほしい。  冒頭でも述べたが、平成30年の残り2か月。一日一日を大切に過ごしてもらいたい。

平成30年度10月全校集会講話(10月1日(月))

2022年3月21日 09時04分

 近頃、どうも「漢字が思い出せなくなった、書けなくなった。」ということを強く実感するようになった。その原因を考えるに、パソコンの普及というものを抜きにすることはできないと思う。  学校に始めてパソコンが入ったのは、(少なくとも自分自身の経験からでは)昭和59年12月であったと記憶している。(今年は「昭和」で言うと、昭和93年だから、34年も昔になってしまった。)当時、デスクトップ型のパソコンが仰々しく学校に入ってきた様子が今でも思い出される。ちなみに、ワードプロセッサー、今で言うワープロはパソコンではなく、ワープロ専用機で、当時70万円ほどするというのを聞いたことがある。何人かの先輩は持っていた。  それで、パソコンの話だが、その年の4月に教員になった頃には、どういう仕組みかいまだにわからないが、テープレコーダーのテープに記憶されたプログラムを、コンピュータらしきものに覚えこませ、それからデータの入力を行うという、現在から考えると想像もつかないような方法で成績処理を行っていた。  しかも、その入力したデータは保存できなかったらしく、私が一度、校内実力テストの成績入力の当番になった時、同僚の一人がコンピュータからコンセントにつながったケーブルを足でひっかけて抜いてしまい、200人ほどの3教科(国数英)の成績を一から打ち直したことを覚えている。

 近頃では、スマートフォンの登場(平成23年初期型?)によりさらにコンピュータが身近なものとなり、日常生活の中で「少しでも時間があればスマホをいじる」人が中高生をはじめとする若い世代だけでなく、大人世代にも及んでいるという記事を新聞で読んだ。  本校では、進路指導部を中心に「隙間時間を利用した学習」を呼び掛け、実際にその成果が卒業生の進路状況にも表れているところである。坂出高校では、携帯電話・スマートフォンは、電源を切ったうえで校内に持ち込みを認める、「許可制」をとっていることから、校内では「隙間時間を使ったスマホいじり」は決してないと考えているが、電車で登下校する皆さん。隙間時間をスマホに奪われてはいないだろうか。

 先に話した新聞記事の中では、60分以上の隙間時間・待ち時間があれば、「本を手に取る」という回答の方が多く、自分としては少し安堵した。

 現在、コンピュータは実に様々なところで-素人には想像さえつかないようなところで-使用されていると考えられるので、「コンピュータの使用をやめる」などという話はあまりにも非現実的なものであろう。したがって、私たちが心しておかなければならないのは、その利用の仕方であろう。高校である皆さんには、「コンピュータ(電子機器)を使わないでいい時には、それを使わない」ということを徹底して行ってほしいと願う。例えば、「電子辞書でなくて紙の辞書を使う」こと。これは私が英語を教えてきた経験から言うことであるが、国語の場合にも同様ではないかと考える。紙の辞書を引くことによって、その周辺にある単語が見える。調べた語の派生語がその周辺に掲載されている、というようなことがよくある。これは、電子辞書では得ることのできない「恩恵」である。  また、「Lineではなく、対面して話す」ことも重要である。コミュニケーションというのは、実は言葉によるものは非常に小さく、表情であったり、口調であったり、話す人の醸し出す雰囲気であったりと、言葉以外の要素が言葉以上の役割を果たすものである。Lineによる言葉は、何の感情もこもらない「ただの言葉(文字?)の羅列」に過ぎない。その言葉に真の意味を与えるためには、対面による話以外にはない。Lineによる言葉のやり取りを真のコミュニケーションと考えている人は多いと思う。私ははっきり、「それはコミュニケーションとは言えない。」と断言したい。繰り返しになるが、コミュニケーションというのは、「自分がどう思っているかということを相手に分かってもらうこと」が目的である。例えば、友達と前から約束していたことについて、「明日は、どこそこで、何時ね。」という確認程度ならLineでやり取りしても構わないと考える。自分の気持ちをLineという道具で文字にして送って、相手に理解してもらう、ということはあり得ない。また、皆さんが社会人になった時、上司に「今日は熱があるので休みます。」とLineで(電子メールも同様だが)送るなどということはあり得ない。私は今話していることがどの程度皆さんの共感を得ているかについて、大変不安である。「校長は何を言よるんや?」と思っている人がいてもらっては困る。すべての人の共感を得なければならない。なぜなら、「Lineによる言葉のやり取りがコミュニケーションである」と考える人が日本人の多数派になってしまうとき、「日本という国は崩壊するのではないか」という危機感さえ覚えるからである。

 これは私も皆さんにそんなに偉そうに言えないけれど、「手書きで済ませられるときには手書きする」ことをすすめたい。最初に言った「漢字が出てこない」というのは、まさにこれに尽きる。漢字は中国伝来ではあるが、日本人が大切にして後世に伝えなくてはならない最も貴重な文化の一つである。しかし、私も年賀状は手書きの一言を添えるだけである。それが自分自身の考え-本来年賀状は全て手書きすべきである-に対するささやかな言い訳である。なぜなら、ワープロ打ちしただけの年賀状は本気で見ることはないからである。また、近頃では「絵文字」というのが日常的に使われているようであるが、ともかく、自分で漢字を書くということが非常に重要な意味合いを持つものであると考える。

 私は、高校というのは皆さんが社会に出るにあたって、きちんとした教育を施す最後の砦であると自負して教育に当たってきた。この姿勢は最後まで貫くつもりである。大学は「教育機関」であるとともに「研究機関」であるため、皆さんの教育にどれほど力を入れているかどうかは大学によりまちまちだからである。皆さんのほぼ全員が進学する坂出高校であるから、本日はあえてこういう話をした。

平成30年度2学期始業式講話(9月3日(月))

2022年3月21日 09時02分

 暑さも少々和らいできたので、少し話をさせてもらう。 1学期終業式、異常な暑さのため、講話では一言「勉強しなさい。」と言った。実践できただろうか。3年生だけでなく、1年生2年生も同じ。夏休みは終わったが、今後とも学校生活の軸足は、常に学業に置くこと。

 夏休み中に目についた新聞記事を2件紹介する。

1 早稲田大学の入試改革

  30.8.1の朝日新聞朝刊に早稲田大学の2020年度入試における改革の記事が掲載されていた。  2020年度入試というのは、現在の1年生が受験することになる平成33年の入学試験を指すものである。その年から、現在行われている「大学入試センター試験」に代わって「大学入学共通テスト」が始まる。 特に英語では、共通テストを受験することに加えて、「英語検定」や「GTEC」などの民間の検定試験を受験することも義務化され、「聞く」「話す」「読む」「書く」の4技能が、実際にどの程度身についているかということも大学入試の合否判定に加わるなど、大変大きな「変革」の年になる。  また、詳細は発表されていない部分も多く、現時点で断定的な言い方をすることは1年生の皆さんの不安を煽ることにもなりかねないが、大学への出願時に、「自分が学校や地域等でどのような活動を行ってきたのか」を申告するというようなことも、一般的になっていくことが予想されているようだ。  さて、話は早稲田大学。私立大学の雄として、その名前は日本のみならず世界にも知れ渡っており、香川県にも卒業生が多く活躍している。大変影響力のある大学である。  その早稲田大学が、2020年度の入試から、次のようなことを行うと発表した。 (1)政治経済学部は数学必須 (2)3つの学部(政治経済、国際教養、スポーツ科学)で「大学入学共通テスト」を課す (3)独自試験(いわゆる個別試験)では、日英の長文読解問題を出題  (1)について  ⇒ 数学の基礎がないと、大学の授業にはついていけない。経済だけでなく政治分野でも「統計」を使う授業が増えている。数学必須化で受験生は減るかもしれないが、必要な人材をとりたい。  (2)について  ⇒ 基礎学力を問い、その上で思考力や判断力を見たい。センターテストは良問が出ている。(それを引き継ぐ共通テストでもそうだろう。)  (3)について  ⇒ 英語力を重視する。(特に政治経済学部。)生きた英語学ぶ科目を必修化した。(教員1人に学生4人の授業。)  今日このような話をした理由。 ① 大学入試改革は急速に進んでいる。今の1年生からは大きく変わることが決定している。その移行措置で、現2年生への影響も考えられる。また、現2年生は1年間浪人した場合、もろに新しいシステムの下での入試にさらされることになる。入試に関する情報に敏感になること。特に、「大学入学共通テスト」(現、大学入試センターテスト)を受けるという意識は全員が持っておくこと。 ② 早稲田の政治経済学部が公表したように、「文系だから数学はいらない」というような短絡的な発想はもはや通用しない。高校で学ぶ教科・科目は社会人として必要とされる基礎力である。こういう意識をもって、日々の学習や自己の学力向上に努めてほしい。特に、2年生3年生。「いらない教科・科目」などという呼び方は言語道断であると認識すること。

2 東京医科大学の不正入試

 30.8.3の四国新聞朝刊の第1面(トップ記事)に目を疑うような見出しがあった。それは、「女子受験者を一律減点」~東京医大、入試で不正操作~というものだった。 記事はこう続いていた。東京医科大学が医学部医学科の一般入試で、年度ごとに決められた係数を掛け、女子受験者の得点を一律減点していたとみられる。女性は結婚や出産を機に職場を離れるケースが多いため、女子合格者を全体の3割前後に抑え、系列病院などの医師不足を回避する目的があったという。得点操作は2010年前後に始まっていたとみられ、2011年度入学者の試験以降、女子の合格率が男子の合格率を上回ることはなかった。 その数日後の新聞記事に、ある男性医師の話があった。「世間全体に、『男は仕事、女は家庭』という考え方が根強く、男はいつまで職場にいても責められないが、女性は仕事をしながら家事・育児をやるのが当たり前だというような風潮がある。そういった考え自体をただす必要がある。」私は、この男性医師の考え方が極めてまっとうな考え方であると考える。

 一方で、8月下旬のテレビニュースで、驚くべき内容が放送された。それは、このような男性医師中心の医学界全体を「仕方がない」と容認している女性医師が65%ほどもいることである。取材を受けた女性医師は、妊娠を機に、上司から職場のチームリーダーの職を、後輩の男性医師に譲るように言われたとのことであった。「大変悔しい」と言っていたその女性医師の涙が目に焼き付いている。

 それに関連して、私は以前から大変違和感を覚えている呼び方がある。それは、夫婦のお互いを指す呼び方。正しいとされているのは、「夫」と「妻」。ただし、「ツマ」というのは本来「添え物」という意味。「刺身のつま」というものがあり、刺身に添えられた大根を細く切ったものやシソの葉、わさびを指す。あくまで「添え物」という意味がいまだに女性に対して使われている。  憲法14条で「すべて国民は、法の下に平等であって、・・・性別によって差別されない」と規定され、さらには、男女共同参画社会基本法というのが、男女平等を推し進めるべく、1999年(平成11年)に施行された日本の法律。男女が互いに人権を尊重しつつ、能力を十分に発揮できる男女共同参画社会の実現のために作られた。 このような法整備も進められてきた中での、この不正入試事件。特に坂出高校は、女子が圧倒的に多い学校。皆さんが進学し、就職し、結婚さらには出産して子育てを行うのもそう遠い先の話ではない。こういった出来事に憤慨し、自分の意見や生き方をしっかりと持ってほしい。

 まだ、残暑が残る中だが、まずは、文化祭準備をしっかりやり遂げ、地域の方々に101年目の坂出高校の姿を披露してほしい。